Đề thi luyện kỹ năng Đọc hiểu - JLPT N1

読解
問題1 次の文章を読んで、文章全体の内容を考えて、以下の中に入る最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   価値の多様性(たようせい)ということが、最近よく言われるようになった。生き方が多様になっただけ、価値観の方も多様になってきた、というのであるが、()たしてそうだろうか。

   教育の「実状(じつじょう)(注1)」を考えてみると、日本人すべてが、「勉強のできる子はえらい」という、一様(いちよう)な価値観に()まってしまっている、と言えないだろうか。親は子どもの点数のみ序列(じょれつ)のみを評価の対象にする。少しでもよい点をとってきて、すこしでも上位に(くらい)(注2)する子は「よい子」なのである。教師も親ほどではないにしても、それに近いであろう。

                                                                     (河合隼雄『子どもと学校 』岩波書店)

(注1) 実状(じつじょう):実際の状況

(注2) (くらい)する:その位置にいる

1.

筆者の考えとして正しいものはどれか。

   本来、人間は集団本能をもった社会的動物で、拙会を離れて生存することは不可能だといわれます。ところがいっぽう、人間の頭脳には個を主張する前頭葉(ぜんとうよう)(注1)があって、常に全体と個の調和が求められます。だから全体と個のバランスがうまくとれなければ、社会に適応することはできないのです。

   このバランスがうまくとれるかどうかは、幼児期の教育だいで決まります。

                                                (井深大「幼稚園では遅すぎる 」サンマーク出版)

(注)前頭葉:脳の一部

2.

このバランス」とは何と何のバランスを指しているか。

   子供の成長のために、母親の愛はかけがえのないものである。身近に自分を保護してくれるもの(母親)がいるという安心感にささえられていてこそ、子供は、正常な成長をとげることができる。

   母親が、何らかの事故でいなくなってしまったサルの場合、子ザルはかなり大きくなっても、ほとんど動こうとせず、仲間にもうちとけていくことができない。したがって、母ザルの愛を欠いた子ザルは、群れ(社刽)の正常なメンバーとなることは難しい。

3.

母ザルの愛を欠いた子ザルは、どうして群れの正常なメンバーになることができないのか。

   欧米人が「個」として確立された自我をもつのに対して、日本人の自我-それは西洋流にいえば「自我」とも呼べないだろうーは、常に自他との相互的関連のなかに存在し、「個」として確立されたものではない、ということであった。

   西洋人からは、この点に関して日本人の無責任性とか、他人志向(しこう)性などと言って非難されることもある。

           (河合隼雄『日本人とアイデンティティーー心理療法家の着想-』講談社)

4.

この点」は何を指しているか。

   議論は漫画やテレビと違い、接してさえいれば自然にその面白さに浸れるというモノではない。読むほう、聞くほうも積極的に関わらなければ面白くない。逆に言うと、一定のテクニックを持つ者しかァクセスできないが、それがわかれば一挙に広大な世界が開ける。この入り口に立てない人はこの豊穣な土地から閉め出されているに等しい。

5.

この文章で筆者の言いたいことは何か。

   今のわたしの生活は豊かだ!

   だが、 そう言い切って何が落ち着かない気持ちになるのは何故(なぜ)か。 生まれた時代と国が違えば、 あるいは為政者(いせいしゃ)の指導が悪ければ、 今も戦禍(せんか)のうちにあり、 明日の食べ物を心配しなければならなかったかもしれない。 そうなれば豊かさとは程遠い暮らしを余儀(よぎ)なくされる。生まれた家庭についても同じことが言えるだろう。 つまり、 今のわたしの豊かさはわたし自身の努力で獲得(かくとく)したものではなく、 ①「 下駄を他に預けたーかさなのである。 ① 下駄(げた)を他に(あず)けた」 豊かさなのである。

6.

①下駄(げた)を他に(あず)けた」 豊かさとはどんなことか。

   食器のバラエティこそ、日本のやきもの(注)の特色の一つだと思います。そして、日本人のやきものに対する思いとか愛着は、食器のみならず、種類の豊富さにあらわれているといってもいいでしょう。

   私たちは食事のたびに、もちろん料理も食べていますが、知らずに目で食器も食べているのです。だから興味・関心がないというのは、不注意なだけなのです。すでに下地はできているのですから、あと一歩踏み込めば、やきものに興味・関心がグッと深まるはずなのだと思います。

(注)やきもの:陶芸品

7.

筆者の考えに合うのはどれか。

   集団にも個人とおなじように、それぞれ性格があるのはたしかだ。しかし、例外というものがある。それが千に一つの例外であるとか、百に一つ、十に一つといったふうに、程度に差があって、取り扱いもウエイト(注)をかえねばならない。いずれにしても、一つの例外を拡大して、それを集団の性格であると規定すれば、おとし穴に落ちたことになる。

(注)ウエイト:比重

8.

筆者が最も言いたいことは何か。

   脳とコンピューターが似ているのは、いずれも計算や記憶ができるからだ、と思っている人がいます。しかし、計算や記憶をするのはあくまでも脳であって、コンピューターはパソコンやメモ用紙のような道具に過ぎないのです。両者が似ているのは、その基本的な仕組みです。

   脳の主役は神経細胞ですが、その細胞からは細くて長い神経線維という糸が出ています。そして、その神経細胞の先端は別の神経細胞に接触するという形で、次々とつながってゆきます。その接触するところをしナップスとよんでいます。つまり、脳は神経細胞またはシナップスを結び目とした巨大な神経網ということができます。その点が、多数の素子が配線で結ばれているコンピューターと似ているのです。

9.

脳とコンピューターの似ているところはどこか。

   かなり能力のある人が何時まで経っても上昇気流に乗れず奇妙に不遇(ふぐう)(注1)であるという場合が少くない。 そういう(かたは例外なく親友がいないのを特色とする。深く語らえる友を見出すための努力を怠ったせいである。通常、親友が出来るのは二十歳前後である。その次には入社後三年以内である。れには人生の辛酸しんさんめた(注2)熟年同士が意気投合する(注3)光景も見られる。いずれにせよ友を求める気持ちの強い両者の幸運な出遭であいである。

(注1)不遇(ふぐう): 運がない

(注2)辛酸(しんさん)()める: 苦労を経験する

(注3)意気投合(いきとうごう)する: 気が合う

10.

この文章の内容と合っているものはどれか。

   女性の誇りはいかに質の高い愛をもらったか、いかにたくさん愛をもらったか、ということです女性はいつの時代も愛されることに命をかけています。世界中の女性がそう思って生きているのです。ほとんど例外はありません。キレイになりたい、という女心は、愛されたいがゆえの願望です。キレイになりたくない、などと思う女性は、百人に一人いるかいないかという確率です。かわいい自分になってたくさんの男性を引き寄せ、その中から質の高い男性を選ぼうとするのが女性というものです。それが女性の戦略です。

(岩月謙司「女は男のどこを見ているか」筑摩書房)

11.

それ」は何を指しているか。

   全国各地の街々には街路樹がある。私は木や森と関わることを職業としているせいもあるが、やはり街路樹がしっかりと植えられる街でないと好きになれない。私でなくとも、読者の中にもそういう人が多いにちがいない。街路樹の良さがその町の品格を代弁する側面がある。街路樹をまったく大切にしない自治体があったとしたら、その自治体にはどこかに欠点があるといってもいいだろう。

12.

筆者は、街路樹はどのようなものだと言っているか。

   日本では、2012年7月から飲食店での生レバーの販売が禁止された。ある食中毒事件を契機に、生肉に対する規制が一気に強化されたのだ。しかし、危険すなわち規制.禁止でいいのだろうか。衛生管理の技術の向上に伴い、現代の消費者は店で提供されるものはすべて安全だと思い込み、食べ物に関する知識が少なく、食に対して完全に受け身になりつつある。安全面をメーカーや飲食店に委ねる消費者と、リスクを恐れる行政が意識を改めない限り、いつか生卵や莿身が食卓から消える日が来るかもしれない。

(注)レバー:食用にする、牛.豚.鷄などの肝臓

13.

筆者の考えに合うものはどれか。

   われわれ人間から見れば、カッコウの卵は、親らしからぬ、非常に愛情に欠けた行為に映ります。他種の鳥の巣に卵を置き、ひなに他の卵を蹴落すことまでさせて、まんまと仮親に自分の子を育てさせるのですから、どうしても、怠け者、ひきょう者といったイメージで見てしまいます。

   一方、托卵行為は、カッコウと托卵される側との長い攻防戦の産物でもあります。托卵先となった鳥たちは卵を見分けるなどの知恵を数十年かけて身につけます。カッコウもそれに応じて技術を磨いてきたのであり、ただ子育てを放棄し、あぐらをかいてきたというわけではないのです。

14.

筆者の説明と合っているものはどれか。 

   日頃(   ひごろ)見なれている景色ー例えば、自分の家の玄関の造りや庭の(たたず)い、などーが、ある時、ふと、まるで初めて見るときのように新しく、珍しくかんられるという経験をしたことはないでしょうか。そのような時、私たちは日常、眼でものをめているつもりで、それでいて実は何も見ていなかったのだということを感じます。

   言葉についても、同じことです。日頃使い慣れている言葉ですから、私たちは自分の使う言葉については何でも分かっているつもりですが、ふとした機会に、実はそれが勝手な思い込みであったことに気づいて、はっとすることがあります

15.

筆者はなぜはっとすることがあると言っているか。

   才能というのは誰でも同じようにあるわけではないし、勉強の才能がない人がそれ以外の才能を持っているという保証もない。それでも、様々な才能があり得るわけだし、自分の才能を探して、そこで頑張って心楽しくなれる人もきっと大勢いると思う。もちろん、何をやってもダメだということもあり得るわけだし、それは仕方がないことである。重要なことは、自分で自分のやり方を決定し、余り後悔しないことである。才能があってもなくなっても、自分なりの規範を見つけ、その中で自足することができれば、人は善く生きられると私は思う。

16.

筆者がここで最も言いたいことは何か。

   ある山の中の古びた宿場町(しゅくばまち)、ここは江戸時代、交通の要所で多くの旅人が行き()った所である。ここでは電線をはじめ、今を思わせるものは一切私たちの目に入ってこない。本当に狭く、あっという間に歩ききってしまうほどの場所だが、ここの人たちの「古い街並みを保存しよう」という強い気持ちがひしひしと感じられる。生活の便利さを求めてしまったら、できないことだ。歴史的に重要な場所を無計画な町づくりで台無しにして(注)しまっている所があまりにも多いと感じるのは、私だけだろうか。

(注)台無しにする:めちゃくちゃにすること

17.

本文の内容に合っているのはどれか。

看護師募集

在宅医療に力を注ぐ西病院で働いてみませんか。

★資格: 正看護師  給与: 30万円

★賞与: 年2回(1回最低1ヶ月分支給)

★勤務時間: 9:00 ~ 18:00

★休日: 月に最低9日(日曜・祝日含む交替制)・慶弔(けいちょう)(注) 休暇・夏期及び冬期休暇(5 日ずつ)・有給休暇・リフレッシュ休暇(2 年勤務ごとに翌年に7日間支給)

★その他: 昇給年1回 、交通費全額支給、社会保険完備、退職金制度有り

(注) 慶弔(けいちょう): 結婚・出産などの喜ぶべきこと、死などの悲しむべきこと

18.

募集要項と違うのはどれか。

情報技術(IT)の進歩に伴い、ITを使いこなせる人とそうでない人の間で得られる情報量の違い、いわゆる「情報格差」が生まれている。この情報格差は、IT化とは別の側面からも生じ得る。そのつが、外国人などが言語の問題で情報にアクセスできないことだ。その対応策とし、多は言語によろ情報提供が進められている。例えば東日本大震災の際にもインターネットやラジオを通してさまざまな多言語情報が発信されたが、現在の課題は、その「伝達方法」である。いくら情報を発信しても相手に届かなければ意味がない。情報が屈くには、発信メディアが日頃から外国人民に広く認知され信糈されるものになっていなければならない。

19.

この文章によると、多言語による情報提供の現在の昆題は何か。

   話しかけるタイミングの悪い人が増えた。彼らは呼吸が上手(うま)くつかめないのである。私は、これはネット社会の影響だろうと考えている。

   電子メールは便利である。メールのお(かげ)でビジネス関連の時間、特に伝達事項にかける時間が随分短縮(ずいぶんたんしゅく)された。こちらは、時間の余裕のある時にメールを書けばよい。相手も時間の余裕のあるときに読めばよい。自分の都合、相手の都合、双方(そうほう)に利益があるのである。

   これを繰り返しているぶんには、相手の都合を考えなくてもよいのである。自分の都合のいい時に「伝達」が済んでしまう。ということは、相手の様子を読むトレーニングを()まなくなる。相手の呼吸に合わせるという感覚がなくなっていくのである。

(竹内一郎「人は見た目が9割 」新潮社)

問題2 次の(1)から(5)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   アイデアを生む発想力というのは、遍在する膨大な記憶を徹底的に「検索」し、適したものを意識の表面に浮かび上がらせる力ではないかと思う。その力は①筋肉と同じで鍛え続け退化する。そして発想力を鍛え、維持するためには、他の誰よりも「長い時間集中して考え抜く」という、ミもフタもないやり方しかない。だがおそらく考えている間はアイデアは生まれてこない。脳が悲鳴を上げるまで考え抜いて、ふっとその課題から離れたときに、湖底から小さな泡が上がってくるように、アイデアの核が浮き上がってくる。

   つまりアイデアというものは常に直感的に浮かび上がる。しかし直感は、「長い間集中して考え抜くこと」、すなわち果てしない思考の延長上でしか②機能してくれない

1.

筋肉と同じと筆者が考える理由は何か。

2.

筆者はアイデアはどのようにして生まれてくると考えているか。

3.

機能してくれないとは、この場合どういうことか。

   日本では休暇が一時期に集中しているので、旅行業界にとって繁忙期は約 100 日間しかない。宿泊や日帰り旅行の費用年間約 23 兆円のうち、 繁忙期に 20 兆円が使われているそうだ。繁忙期は旅行行者が一斉に移動するので渋滞するし、予約も取りにくい。行楽地に行っても人込みで却って疲れてしまうほどだ。宿泊代やツアー代などの費用も通常期に比べ2倍以上になることも珍しくない。だから休暇の平均化が可能なら旅行者にとっても喜ばしいし、旅行者の増加に結びつき受け入れ側に利益をもたらす。また、飲食・旅行業界は時期の偏りがありすぎるので正社員率が30 % に満たないが、これが上向く可能性もある。分散による経済的効果は計り知れないので、現在政府内で検討中だ。

   フランスは 1964 年から国内を 3 分割して学校の冬と春の休暇を1週間ずつずらした。それが交通渋滞の解消と観光施設経営の安定化に役立っているそうだ。日本では旅行繁忙期はほとんどが国民の祝日と重なっていて、親子一緒に休める貴重な長めの休日となっている。しかし、国民の祝日は記念日なのでこれを地域ごとに変えることに異議がある。また、子ども達の休暇を移行した場合も年休が取りにくい日本では休暇の分散にそれほど効果は上がらないだろう。どのように休日の平均化を進めるか今知恵が試されている。

1.

通常期と繁忙期の差がないのはどれか。 

2.

休日分散による経済効果とあまり関係ないのはどれか。

3.

日本とフランスの休暇について述べているのはどれか。

 人間は、所詮(しょせん)、時代の子である、環境の子である。わたしたちの認識は、自分の生きてきた時代や環境に大きく左右される。ある意味、閉じ込められているといってもいい。認識できる「世界」はきわめて限定的なのであり、時代や環境の制約によって、認識の鋳型(いがた)(注1)ができてしまうから、場合によっては、大きく(ゆが)められた「世界」像しか見えなくなることもある。わたしたちは、①そういう宿命を背負っているのである。

 だから、「世界を知る」といいつつ、実は、偏狭(へんきょう)な認識の鋳型(いがた)で「世界」をくり()いた(注2)いるだけということが生じたりする。鋳型(いがた)が同じであるかぎり、断片的な情報をいくら集めたところで、「世界」の認識は何も変わらない。固まった世界認識をもつことは、「世界」が大きく変化する状況では非常に危険なことである。

 一方で、これほど情報環境が発達したにもかかわらず、②「世界を知る」ことがますます困難になったと感じている人も増加している。果てしなく茫漠(ぼうばく)(注3)と広がり、しかも絶えず激動する「世界」が、

 手持ちの世界認識ではさっぱり見えなくなってぎているからだ。たしかに、ただ漫然(まんぜん)とメディアの情報を眺めているだけでは激流(げきりゅう)()み込まれてしまう。

 いまこそ、時代や環境の制約を乗り越えて、「世界を知る力」を高めること痛切に求められてるのではないか。

 もちろん、時代や環境の制約から完全に自由になることはない。しかし、凝り固まった認識の鋳型(いがた)をほぐし、世界認識をできるだけ柔らかく広げ、自分たちが背負っているものの見方や考え方の限界がどこにあるのか、しっかりとらえ直すことはできるはずだ。

(寺島実郎 『世界を知る力」による)

(注1)鋳型(いがた):ここでは、画一化した型

(注2)くり()いて:ここでは、切り取って

(注3)茫漠(ぼうばく):広がりがあり過ぎて、はっきりしない様子

1.

①そういう宿命とはどういう意味か。

2.

②「世界を知る」ことがますます困難になったのはなぜか。

3.

筆者は、「世界を知る力」を高めるためにできること何だと考えているか。

   仮にあなたが知りあいから、エチオピアで飢餓に苦しむ難民救済のための募金に協力してくれと頼まれたとしよう。はじめから断ってしまえば、多少のうしろめたさは残るもののそれで一応、①事態は収まる。しかし、もし協力を表明したとすると、あなたは、募金箱に百円入れても、千円入れても、一万円入れても「なぜもっと出せないのか」と言われるかもしれないという、「つらい」立場に立たされることになる。

  (中略)先進国が今ある繁栄を獲得した要因となった種々の経済活動は、地球という、人類全体が共有すべき有限の資源を消費した結果であるという視点もありうる。そう考えるなら、南北の経済格差や南の国の飢餓の宿題は、その共有資源を消費した代償として得られた経済活動の果実の偏在に起因するものであり、単に、ある特定の地域の問題ではありえないという議論が妥当性を持つことになる、資源の消費に関しては最大の「貢献国」のひとつである日本の国民としては、自分だけ高い生活水準をエンジョイしつつ、世界に蔓延する飢餓は自分の問題ではないとは言いきれない。

   ②ボランティアが経験するこのような「つらさ」は、結局、自分ですすんでとった行動の結果として分自身が苦しい立場に立たされるという、一種のパラドックスに根ざすものである。

                             (金子郁容「ボランティアもうひとつの情懶社会」岩波書店による)

1.

事態は収まるとは、具体的にはどういうことか。

2.

筆者の考えによると、南北の経済格差や飢餓の問題を引き起こした要因は何か。

3.

ボランティア経験するこのような「つらさ」とは、どのようなものか。

   人間は、所詮(しょせん)、時代の子であり、環境の子である。わたしたちの認識は、自分の生きてきた時代や環境に大きく左右される。ある意味、閉じ込められているといってもいい。認識できる「世界」はきわめて限定的なのであり、時代や環境の制約によって、認識の鋳型(いがた)(注1) ができてしまうから、場合によっては、大きく(ゆが)められた「世界」像しか見えなくなることもある。わたしたちは①そういう宿命を背負っているのである。

   だから、「世界を知る」といいつつ、実は、偏狭(へんきょう)な認識の鋳型(いがた)で「世界」をくり()いて(注2) いるだけということが生じたりする。鋳型(いがた)が同じであるかぎり、断片的な情報をいくら集めたところで、「世界」の認識は何も変わらない。固まった世界認識をもつことは、「世界」が大きく変化する状況では非常に危険なことである。

   一方で、これほど情報環境が発達したにもかかわらず、「世界を知る」ことがますます困難になったと感じている人も増加している。果てしなく茫漠(ぼうばく)(注3) と広がり、しかも絶えず激動する「世界」が、手持ちの世界認識ではさっぱり見えなくなってきているからだ。たしかに、ただ漫然(まんぜん)とメディアの情報を眺めているだけでは激流(げきりゅう)()み込まれてしまう。

   いまこそ、時代や環境の制約を乗り越えて、[世界を知る力」を高めることが痛沏に求められているのではないか。

   もちろん、時代や環境の制約から完全に自由になることはない。しかし、凝り固まった認識の鋳型(いがた)をほぐし、世界認識をできるだけ柔らかく広げ、自分たちが背負っているものの見方や考え方の限界がどこにあるのか、しっかりとらえ直すことはできるはずだ。

(注1)鋳型(いがた):ここでは、画一化した型

(注2) くり()いて:ここでは、切り取って

(注3)茫漠(ぼうばく):広がりがあり過ぎて、はっきりしない様子

1.

そういう宿命とはどう意味か

2.

「世界を知る」ことがますます困難になったのはなぜか。

3.

筆者は、「世界を知る力」を高めるためにできることは何だと考えているか。

   会話を進めるうえで、男女間では①対照的な特徴があった。

   たとえば、お互いの発話への支持作業のちがいだ。女性は男性の発話に対して、「ん」「そうー」「へえー」「すっご〜い」などの「あいづち」や「うなずき」を(ひん)(ぱん)に行っていた。これは、明らかに相手の語りを評価し、さらに話を進めていくことを支持する営みだ。

   対照的に、男性は女性の発話に対し、こうした支持作業をそれほど積極的に行っていなかった。

   また、同性間の会話に比べ、男性が女性の発話に割り込んでいく割合が多かった。

   会話における割り込み。これは単に相手の話をさえぎることではない。発話する権利の配分という点から考えれば、②ゆゆしき権力行使と言える。つまり、それは相手がしゃべることができる場でしゃべりきることを制止する権力行為であり、また、しゃべり終えたあと、会話において次の行為を決めることができる権利をも奪っていくのである。

   詳しくは、先にあげた論文を読んでほしいのだが、ここで言いたいのは以下のことだ。

   性差別という現象を考えるとき、歴史的な経緯や社会構造的な背景から、その原因を説得的に論じることもできるだろう。しかし、他方で③まさに日々、性差別はつくられ続けているのである。

1.

対照的な特徴とはどのような傾向のことか。

2.

作者が割り込みを②ゆゆしき権力行使と考える理由は何か。

3.

まさに日々、性差別はつくられ続けているとあるが、筆者の考えに近いものはどれか。

   非常ベルのたぐいで、一番心に残っているのは、ケニヤで見たものである。

   あれは何という動物保護区だったか、名前は忘れてしまったが、湿地帯(しっちたい)のまん中に、高床式(たかゆかしき)(注1)で建っていたホテルである。

(仲略)

   食堂の(わき)に、ガラス張りの大きなベランダがあり、そこから、目の前の沼沢地(しょうたくち)(注2)に水を飲みにくる動物を見物出来るようになっていた。

   そのホテルの部屋の、ベッドサイドにベルがついていて、「アニマル・コール」という札がついていた。

絶対に大丈夫だといっているが、象もいればヒョウもいる。①連中(れんちゅう)(注3)がその気になったら、体当たりだって出来るし、窓から(しの)び込むことも出来る。万一のときには、これを押せばいいんだなと、感心をしたのだが、これは私の早とちりであった。

   夜中に水を飲みにくる動物を、徹夜(てつや)で見張るわけにはいかない。何時に出てくるか(わか)らないし、一晩中にらんでいても出てこないこともある。

   そこで、自分の見たい動物を書いて、頼んでおくと、見張(みは)(注4)がいて、ヒョウが出たら、ヒョウを見たいと書いた人の部屋のベルが鳴るという仕掛(しか)けなのだ。

   「アニマル・コール」は、野獣襲撃(やじゅうしゅうげき)を知らせるのではなく、出ましたよ、見にいらっしゃいというサインなのである。

   私はヒョウとサイを頼んだ。

   鳴ることを祈りながら、いつ飛び起きてもいいよう、パジャマも着ず、着のみ着のまま、カメラと双眼鏡を枕もとに置いて横になったのだが、その夜、アニマル・コールは、沈黙(ちんもく)したままであった。

(向田邦子 『女の人差し指』文春文庫による)

(注1)高床式(たかゆかしき):床が地面から高いところにあるつくり方

(注2)沼沢地(しょうたくち):沼や浅い川になっているところ

(注3)連中(れんちゅう):彼ら

(注4)見張(みは)り:何かが起こるのをじっと監視(かんし)している人

1.

①「連中(れんちゅう)とはだれのことか。

2.

②「万一のとき」というのはどんなときか。

3.

「アニマル・コール」の説明として、最も適当なものはどれか。

   科学や技術によって世の中が進歩すればするほど、人間も進歩し、人間は善くなり、悪人はいなくなるなどと考えることは、どうも幻想にすぎないのではないだろうか。①そんなことをもし学校で子供たちに教えているとしたら、それは()(まん)(注)にすぎない。文字どおり、子供だましである。

   愛すべき人間は多い。それは事実だ。しかし信用できない人間、かくれてだます人間、人を傷つけて知らぬふりをしている人間の数も、それに劣らず多い。それも事実だ。そして科学技術が進めば進むほど、②そのような人間も多くなってゆくだろうことを、学校教育は強力に子供たちに教えるべきである。「通常、人間は機会さえあれば、悪いことをするものである」とすでに古くアリストテレスは言っている。

   日本のような他者志向型の文化のなかでは、人びとの頭のなかには「人間はみな善人で信ずべき存在である。他人を疑ってはいけない」という甘い考え、あるいは根拠のない幻想がしみついている。だから学校でもそのように子供に教える。まるで子供に目をつぶらせて、狭い平均台のうえを渡らせるようなものだ。オモテばかりを教えて、ウラを教えない教育は片手落ちというべきである。疑うべきものはきちんと疑うように教えるぺきなのだ。

(注)()(まん):だますこと

1.

そんなこととあるがどんなことを指しているか。

2.

そのような人間とは、どのようなものか。

3.

筆者は子供にどのようなことを教えることが必要だと言っているか。

アイデアを生む発想力というのは、遍在する膨大な記憶を徹底的に「検索」し、適したものを意識の表面に浮かび上がらせる力ではないかと思う。その力は①筋肉と同じで鍛え続けないと退化する。そして発想力を鍛え、維持するためには、他の誰よりも「長い時間集中して考え抜く」という、ミもフタもないやり方しかない。だが、おそらく考えている間はアイデアは生まれてこない。胸が悲鳴を上げるまで考え抜いて、ふっとその課題から離れたときに、湖底から小さな泡が上がってくるように、アイデアの核が浮き上がってくる。

つまり、アイデアというものは常に直観的に浮かび上がる。しかし、直観は、「長い間集中して考え抜くこと」。すなわち果てしない思考の延長上でしか機能してくれない。

(村上龍「無趣味のすすめ」幼冬舎)

1.

(1) 筋肉と同じと筆者が考える理由は何か。

2.

筆者はアイデアはどのようにして生まれてくると考えてくるか。

   中卒の 7 割、高卒の 5 割、大卒の3割の人が、就職後 3 年以内に会社を辞めてしまうそうだ。いわゆる「七五三問題」である。最近は就職氷河期が読いており、転職も難しく、今後もなかなか景気の回復は望めないからこの数値は少し下がる可龍性があるが、予断を許さない。なぜ若者は簡単に会社を辞めるのか。企業から言わせると最近の若音は我慢が足りない、若耆から言うとつまらなくて希望のない仕事は早ㄑ見切りをつけたほうがいいと言うことになる。昔から新入社員は我慢を強いれるつまらない仕事を(あて)がわれていた。それでも辞めなかったのは、今はつまらない仕事ばかリで給料も低いけれど、将来は責任がある仕事を任せて貰えるし給料が上がる希望があったからだ。今は先が見えないので、つまらない仕事を読けた果てにリストラでもされたらと考えるのかもしれない。しかしこの転職、余程実力があったりキャリアアップのためなら別だが、単に仕事が面白くないという理由なら反対だ。何度転職しても同じ結果に陥るからだ。また企業にとっても新卒の採用には費用がかかるので簡単に辞められては大損失だ。お互いのためにならない。宇生は自分身の価値観や志望動機を確立するペキだ。その上で特別な時以外3年間ぐらいは働きながら将来を考えてみるべきだと思う。

1.

就職氷河期が続くと、どうして数値が下がるのか。

2.

七五三問題」の原因でないのは何か。

3.

著者の短期の退職に対する考えはどれか。

   私は、世界初、日本初、業界初、市場初などとついた商品が出るとワクワクするというミーハー(注)だ。電卓が小型化、薄型化を競いはじめたころ、名刺サイズで厚さが5ミリメートルくらいのが初めて発売されたときには、結構な値段にもかかわらず飛びついてしまった。

   数字に弱いにもかかわらず、仕事で電卓を使うことが多かった私にとって、電卓をいつも身につけることができる名刺サイズは、①大きな福音に思えだ。しかも、出はじめの商品であるだけに、同僚たちに自慢ができるというミーハー心もくすぐられたからでもある。

   しかし、買ってしばらくは定期入れと一緒に持ち歩いていたが、1カ月もしないうちに元の電卓を使うようになり、カード電卓は机の引き出しで(ほこり)をかぶってしまうようになった。②それは、名刺サイズにするためにキーを小さくており、しかもその操作感も頼りないために使いにくかったからである。また、胸ポケットなどに入れると、本体がねじれるため接触不良をおこし、故障したりもした。そういったことがあったため、その後、電卓が薄型化を競い合い、キーの突起がないフラットなものまで出てきたが、さすがにミーハーの私でも飛びつくことはなかった。もちろん、名刺入れに入るというカード電卓のよさはあるが、ある意味では非常用であり、指の大きさや器用さから言えば、ものには「適度な」大きさがあることを学んでのである。

(注)ミーハー: 程度の低いことに熱中しやすく、流行に左右されやすい人

1.

筆者には、なぜ①大きな福音だと思えたのか。

2.

それは何を指しているか。

3.

名刺サイズのカード電卓を使ったことで、筆者がわかったことは何か。

 以前、花見をしている時に「桜の花は本当にきれいな正五角形(注1)だね」と言ったら、風情のない人だと笑われたことがあった。確かに、桜の花びらには微妙な色や形、そして香りに加えて、散りゆく美しさがある。花を()でる和歌や俳句は数限りないが 、そのなかに「正五角形」という言葉が使われたことはおそらく一度もないであろう。科学者特有の美意識は、風流とはかなり異質なものなのだと悟った。

 科学において本質以外を切り捨てるためには、大胆な抽象化と理想化が必要である。桜の花びらのたくさんの特徴の中から、「正五角形」という形だけを取り出すと。これが抽象化である。実際に数学的な意味で完全な正五角形を示す花びら少ないだろうか、そこにはあまりこだわらない。これが理想化である。

 自然界で正五角形のような対称性を示すためには必ず規則的な法則があるはずである。花の場合、品種によって花弁(はなびら)(注2)の回転対称性が遺伝子で決定されていることは間違いないから、うまくこの遺伝子を突きとめられれば、花の形を決める普遍的な法則見つかるに違いない。このように、抽象化と理想化によって自然現象は単純に整理でき、普遍的な法則を見つける助けになる。

(酒井邦嘉『科学者という仕事 』による)

(注1) 正五角形:五つの辺の長さが等しい五角形

(注2)  花弁(はなびら):花びら

1.

筆者は、自分が笑われた原因は、どこにあると考えているか。

2.

ここでの理想化とは何か。

3.

筆者の考えによると、花の場合、抽象化と理想化によって何が期待されるか。

   最近はテレビのコマーシャルにクラシック音楽が盛んに登場して、 しかもそれが驚くほど新鮮な魅力を持っていたりする。しかし、 こうしたことがすぐに ①クラシック音楽の普及につながるなどと考えない方がいいだろう。

   クラシック音楽は難しいという人は結構多い。彼らが口をそろえて言うのは、 曲が長くて途中で退屈してしまう、 暗く()ざされたコンサート会場で長時間物音(ものおと)ひとつ立てずにじっと座っているのは苦痛だ、 ということだ。 このことは、 つまりクラシック音楽というのは、 長い曲を聴き通すこと、それも何かをしながらではなく集中して曲全体を聴き通すことであり、 旋律(せんりつ)やリズムや音響(おんきょう)といった現象的(げんしょうてき)な快楽にとどまらない、 総合的でドラマティックな体験であるということを示している。もちろん細部(さいぶ)が全体に劣るわけではないだが、 ②曲全体という世界の中に位置づけられることで、細部は、 それだけで存在する以上の意味を持つことができる

   しかし、 コマーシャルの15秒のクラシック音楽は、 そういう体験にはほど遠い。 それはたしかに作品の一部には違いないが、 その向こうに作品全体を暗示(あんじ)することのない、 むしろ作品という根から切り離された、 個別的()快楽(かいらく)的な現象である。 だから、 コマーシャルにクラシック音楽が続々と登場し、 それが感動を誘っているとしても、 かならずしもそれで人々が容易にクラシック音楽に(みちび)かれるとは考えないほうが良い。ともかく、 こうしたことは音楽の受け止め方が変質(へんしつ)しつつあることを示しているのではないだろうか。

( 岡田敦子「 永遠は瞬間のなかに」品社による)

1.

①「 クラシック音楽の普及につながるなどと考えない方がいい」 と筆者が考える理由は何か。

2.

②「 曲全体という世界の中に位置づけられることで、細部(さいぶ)は、 それだけで存在する以上意味を持つことができる とあるが、 どういうことか。

3.

クラシック音楽について、 筆者の考えに近いものはどれか。

「疲れましたなあ」 

   と、同行のTさん(注1)が、湯気のなかでいった、Tさんはものに感動すると肩が()る人である。(中略)

下関(しものせき)(注2)・山口間の景色など、とくべついいものではない。むろん奇岩怪石(きがんかいせき)(注3)が団々と横たわっているわけでなく、変哲もない田園と丘陵のなかを道が北上してゆくのみなのである。しかし途中、出会う車はほとんどなく、例の擬石(ぎせき)(注4)建造物もあまりなく、平凡な緑と空がつづいていた。平凡な緑と空というものが、いまや日本ではもっとも歎賞(たんしょう)(注5)すべき絶景になっているのである。Tさんの肩の凝りは、そういう絶景への感動と無縁ではないらしい。(中略)

Tさんはこの松田屋の湯のなかで顔の筋肉をゆるめながら、不意に気づいたように、「これは温泉ですか」

と、叫んだ。

われわれが(ひた)っている湯は、温泉であった。われわれがいま山口市の高名(こうめい)な温泉地である湯田の宿に泊まっている以上、この湯は温泉にちがいない。

「なるほど、温泉ですか」

と、Tさんは、この浴室における大発見にすっかり①感動してしまい、ふたたび肩が凝りはじめたようであった。

Tさんは、元来地理的教養の豊富な人なのである。山口市には湯田温泉というものが存在するということは知っているし、第、この宿の予約をとってくれたのはTさんなのである。しかしそれらはすべて知識であって、叩今只今(たたくいまただいま)Tさんの浸せた肉体を浸しこんでいるこの湯が温泉であるという心証的発見とはかかわりがない。肉体をもってこれが温泉であるということを知ったときに突如声を発するというのが、詩人なのであろう。

(司馬遼太郎 『街道をゆく1甲州街道、長州路ほか』朝日新聞社による)(注1)Tさんは詩人である。

(注2)山口県の下関市と口市の間。筆者とTさんは、福岡県の小倉市から下関市を経由し、山口巾に移動してさた。

(注3)奇岩怪石:奇妙な形をした珍しい岩々

(注4)擬石建造物:天然石に似せて作シた人造石の建造物

(注5)歎賞:優れたものとして感じ入ること

(注6)心証:心に受ける印象

1.

Tさんは山口への移動中、なぜ肩が凝ったのか。

2.

Tさんは何に①感動したのか。

3.

筆者は詩人とはどのような人だと考えているか。

   住居を買おうとするときは、その資産的な価値に重点を置いて考える人が多い。普通の人にとっては、一生に一度の買い物とでもいうべきもので、多額の金を費やさなくてはならないので、当然のことだ、買った後で、何らかの事情で売らなくてはならない羽目になったときに、価値が減少していたのは、大損害を被る。

   だが、住居にとってより重要なのは、その有用性(注1) である。住みやすさが必要なのはもちろんだが、自分のライフスタイルに合った構造になっているとが、生活のしやすい環境にあって利便性(注2) に富んでいるとかの点も、重要な要素である。それらは必ずしも世間一般の価値基準とは一致しない。したがって、自分たちの考えからや行動様式に従い、それに照らし合わせて判断する必要がある。

   特に、(つい)住処(すみか)(注3) として考えるときは、自分たちの生き方をはっきりと見極め、その視点に立ったうええ、洗濯し決めていかなくてはならない。年を取ってくれば、当然のことながら、行動する能力は衰えてきて、動き回る範囲は狭まっていくる。

   自分たちの余生がどのようなものになるかについて、計画をたてたうえに想像力を働かせて、確実性の高い予測を組み立ててみる。その未来図に従って、住むべき場所の見当をつけ、住居の大きさや構造などを決めていく。もちろん、将来の経済情勢の大きな変化に備えて、予算を大きく下回る出費に抑えておくことも必要であることは、いうまでもない。

(注1)有用性:役に立つこと

(注2)利便性:便利さ

(注3)(つい)住処(すみか):人生を終えるまで住む家

1.

世間一般の価値基準として筆者が本文であげているのは何か。

2.

筆者の考えでは、年を取ってから住む家として住居を選ぶときに最も大切なことは何か。

3.

住居選びについて、筆者が最も言いたいことは何か。

問題3 次の文章を読んで、質問に答えなさい。答えは、1・2・3・4から最もよいものを一つえらびなさい。

   日本はエネルギーの80% 以上を海外に頼っている。今後世界でも資源不足になるので、太陽光発電や風力発電などの自然エネルギーをもっと利用していく必要がある。

   2008 年の太陽光発電の新設導入量は1位スペイン 2511 MW、2 位ドイツ 1500 MW、3 位アメリカ 342 MW、4 位韓国、5 位イタリア、そしてやっと 6 位に日本が来るという状況だ。日本のメーカーは太陽光発電技術で常に世界をリードしていた。しかし、設置に対する補助金を停止したことで、それまで普及率世界一だった地位を簡単にドイツに明け渡してしまった。世界の流れに反する政策で技術力があるにも関わらず、日本メーカーの力は次第に落ちてきたのである。

   現在、巨大太陽光発電施設が世界各地で建設されている。スペインは 2009 年に稼働したし、アフリカでも同様の施設を建設中だ。バチカンでさえ太陽光発電ビジネスに投資する時代だ。また、太陽光発電で上位の国はほかの自然エネルギーも積極的に取り入れている。スペインでは既に風力発電が最大の電力源になっている。

   多くの国で自然エネルギーに舵を切っている。アメリカは「グリーン・ニューディール」政策で 2050 年に温室効果ガス 80% 削減、自然エネルギー電力を 2012 年に10%、  2025 年に 25% に引き上げ、自然エネルギーの開発に 1500 億ドルを投資し、500 万人の雇用を生み出す計画だ。EUも 2020 年までにエネルギーの 20% を自然エネルギーにし、電力については 30% 以上を目指している。自然エネルギーの雇用ではドイツは 2006 年に 26 万人、2020 年 50 万人、2030 年 71 万人を見込んでいる。また、スペインは風力と太陽光発電で2007年に 19 万人だったそうだ。中国も約 94 万人、そのうち太陽光発電で約 60 万人、ブラジルもバイオエタノールで約 50 万人の雇用を生み出している。

   自然エネルギーは全て国の政策ひとつで数字が変化する。日本では 2009 年に太陽光発電の補助金が復活し、電力の買い取り額が上がったために設置する人が急増してきた。 しかし、日本が停滞しているうちにカをつけてきた新興国が価格で日本市場を脅かすまでに成長していた。

   目然エネルギーは太陽光発電ばかりではない、風力、波力、地熱など様々である。まだどれを選んだらいいか明確な道はない。政府は太陽光発電以外の新エネルギー事業も促進されるような政策をとるべきである。

1.

日本が新エネルギーを利用しなければならないのはなぜか。

2.

世界の太陽光発電業はどうなっているか。

3.

自然エネルギー導入は何をもたらしたと言っているか。

4.

著者の自然エネルギーに対する意見でないのはどれか。

   最近、思想を表現する方法について考えることが多くなった。たとえば、文章は思想を表現する方法のひとつだけれど、その文章にもいろいろな表現形式がある。哲学の勉強をはじめた頃の私は、さまざまな形式のなかで論文という形式だけが、思想表現の方法にふさわしいと思っていた。

   しかし、後に、この考え方を訂正しなければならなくなった。思想の表現として、論文が唯一の方法だということは絶対にない。私たちは、すぐれたエッセーや小説、 詩をとおして、しばしば思想を学びとる。とすれば、思想を表現する文章のかたちは、自在であってよいはずである。

   ところが、そう考えてもまだ問題はある。というのは、思想の表現影式は、文章というかたちをとるとは限らないのだから。絵でも彫刻でも、音楽でも、つまり実にさまざまなものを用いて、思想を表現するのは可能なはずである。そのなかには、かたちにならないものもある。

   たとえば私の村に暮らす人々のなかに、自然に対する深い思想をもっていない人など一人もいない。村の面積の96パーセントを森や川がしめるこの村で、自然に対する思想をたなかったら、人は暮らしていけない。ところが村人は、<自然について>などという論文を書くことも、文章を書くこともないのである。そればかりか、自分の自然哲学を、絵や音楽で表現しようとも考えない。

   そんなふうにみていくと、村人は自然に対してだけではなく、農についての深い思想や、村とは何かという思想をももっているのに、それらを何らかのかたちで表現することも、またないのである。

   とすると、村人たちは、どんな方法で自分たちの思想を表現しているのであろうか。私は、それは、<作法>をとおしてではないかという気がする。
(中略)
   考えてみれば、もともとは、作法は、思想と結びつきながら伝承されてきたものであった。たとえば昔は、食事の作法を厳しくしつけられた。食べ物を残すことはもちろんのこ、さわぎながら食事をすることも、けっしてしてはいけなかった。それは、食事は生命いただくものだ、という厳かな思想があったからである。茶碗(ちゃわん)の中の米だけをみても、人間はおそらく何万という生命をいただかなければならない。だから、そういう人間のあり方を考えながら、いま自分の身体のなかへと移ってくれる生命に感謝する。この思想が食事の作法をつくりだした。

   ところが、近代から現代の思想は、このような、日々の暮らしとともにあった思想を無視したのである。その結果、思想は、文章という表現形式をもち、文章を書く思想家のものになった。そして、いつの間にか人間の上に君臨し、現実を支配する手段になっていった。

1.

かたちにならないものとして筆者が挙げているのはどれか。

2.

この文章中で筆者は、自分の村に暮らす人々がどんな思想をもっていると述べているか。

3.

食事の作法は、次のどのような考え方と結びついているか。

4.

この文章中で筆者が述べていることはどれか。

   今の子どもたちはテレビやゲーム遊びが中心となってしまったから、疑問を持ったり質問したりする癖を失っている。与えられた情報をいかに使いこなすかが関心事になっているからだ。「疑う」のはかったるい、そのまま信じる方が楽なのに、と思う習慣が身についている。そのような場合には、「①断技術」を教えねばならない。「疑う」方が世界が広がり、もっと面白いことが隠れていることを実感させれば、子どもたちは「疑う」ことに夢中になると請け合える。

 「疑う技術」を教えるためには、大人が子どもを挑発する必要がある。次々と質問を発してアレコレ考える楽しみを味わわせるのだ。それによって子どもたちはいかに多くの不思議にとり囲まれているかがわかってくる。周囲の大人が「疑う心」を持っておれば、子どもも自然に同調するものなのだ。

   むろん、世の中が円滑に回るためには、②共通に定められたルールを「信じる」ということが欠かせないのは事実である。ルールそのものを信じ、みんながルールを守ることを信じ、ルール違反には罰則が科せられることを信じる、それがあってはじめて社会生活が営めるからだ。しかし、私はそのルールさえいったん疑い、納得の上で信じるとかみかかいうふうに変わるべきだと思っている。ルールは(かみ)(がか)り的に上から与えられるものではなく、社会を構成する人間が一致して決めるべきものであるという観念を養う必要がある。(中略)

 「疑う」ばかりで、「信じる」が後回しになるのは心配だと思われるかもしれない。私が言いたいことは、「疑った上で納得すれば信じる」ということである。そうであれば、何を信じ、何が信じられないかの区別がつくだろう。信じることをいったん留保して、疑い続けねばならない場合もあることを学ぶ必要もある。単純なルールであっても、いろんな側面があることを知ることは人生にとって大切であると教えるのだ。ルールだけではない。自然界の現象について「なぜそうなるの?」と疑問を持ち、機械や道具の仕組みに「どんな仕掛けになっているの?」と考え、世の中の風習に「なぜそうしなければならないの?」と不審に思う。そのように疑い続けることが自然や社会の実相をつかむ根源の力になると思うのだ。単純に信じる方が時間がかからず手っ取り早いが、それでは社会に従属するだけになってしまう。

1.

疑う技術とはどういうものか。

2.

筆者は、②共通に定められたルールについてどのように考えているか。

3.

「疑う」ことにはどのような利点と難点があるか。

4.

この文章で筆者が言いたいことは何か。

   私は芸術の存在理由を、一般に考えられているように個人の内面の表現のためにあるより、人間理解あるいは①人間関係の創造のためにあると思っています。われわれが何かを表現し、それを公にする場合、他者あるいは第三者というものを前提としない活動の持続も、専門的な行為の成立もないからです。

   ではこの人間関係の創造とは、何であるのか。それはある人間がどういう関係や状況に置かれているのか、どういう可能性をもっているのか、あるいはどういう感受性(注1をもっているのかをまず明らかにすることです。そしてそこからさらに発展して、いったいこの人間といわれるものは何なのか、そういうレベルでの問いかけを多くの人々と共有することです。つまり、ある表現行為を契機にして他人と共に人間について考え、想像することです。そういう目的で芸術行為の存在は貴重だと私は考えています。

   たとえばベートーヴェンの音楽を聴いて、われわれは②人間を想像し、人間を理解しようとすることができます。これは絵画にも同様に言えます。しかし、人によっては「音楽とは音ではないか」「絵画とは色ではないか」「演劇のように生身(なまみ)(注2)の人間が出てこない」という人がいるかもしれません。そして「なぜそれが人間について想像させるのか」と疑問をもつ人もいるでしょう。

   私が言いたいことは、それが創られた音であり色であるということです。われわれが日常では感じられない音であり色なのです。にもかかわらず、というよりそれだからこそと言うペきでしょうが、われわれは思わずそれに注意を集中させられてしまうことがあります。これはいったい何なのかと。また、そうした音や色を創りだすために自分自身の全エネルギーを捧げる人間とはいったい何なのかと。

音楽でも絵画でも文学でも、さらには演劇でも、すべて人間が創りだしたものです。そうした③人間が創造したものを通して、われわれは日常で慣れ親しんだ考え方や見方とはちがったように人間を想像し、またそのことによって人間関係について考えることがあるのです。(中略)

   いままで多くの人々に励ましを与えてきた価値ある芸術作品は、多様な人間関係や社会を成り立たせている〈コミュニケーション・システム〉がわれわれに与える感受性や考え方を変更しうる力をもっています。そのためにわれわれは芸術家という人間の存在に、われわれの想像力を誘われたのであり、人間というものがそれに所属しないでは生きていけないような社会の在り方について考えさせられたのです。

(鈴木忠志『演劇とは何か』岩波書店による)

(注1)感受性:外からの刺激を深く感じ取り、心に受けとめる能力

(注2)生身:実際の体

1.

人間関係の創造とは、どういうことか。

2.

人間を想像し、人間を理解しようとするのはなぜか。

3.

人間が創造したものに当てはまるものはどれか。

4.

筆者は優れた芸術作品とはどのようなものだと考えているか。

  我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を旅行しようと、何をしようと、小さい。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学問はただの大風呂敷(おおぶろしき)(注1) になる。言葉の風呂敷(ふろしき)はいくらでも広げられるから、そうやっているうちに自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、①そんな錯覚に捕らえられる。木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる農夫(のうふ)とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界標準の稲を育てたりはできないから、彼らはみな、自分の仕事において賢明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学問をすること、書物に学ぶことは、 ほんとうは②これと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたとはみな、我が身ひとつが天地の間でしっかりと生きることだからだ。

   人は世界的にものを考えることなどはできない。それは錯覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を開いていることならできる、我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人間なら、それかどういうのことかは、もちろん知っている。人は誰でも自分の気質を背負って生まれる。学問する人にとって、この気質は、農夫(のうふ)に与えられる土壌ようなものである。土壌は天地に開かれてなければ、ひからびて(注2)不毛になる。

   与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学問や思想もまた、人の気質にえられた苗のように育つしかないのではないか。子供は、勉強して自分の気質という土を耕し、水を引き、もらった苗を、書物の言葉を植えるのである。 それは、子供自身が何とやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる書物とともに育つことができる。子供が勉強をするのは、自分の気質という土壌から、やがて実る精神の作物を育てるためである。「教養」とは、元来この作物を指して言うのであって、(もの)()り(注3) たちの大風呂敷(おおぶろしき)を指して言うのではない。

(注1)大風呂敷(おおぶろしき):実際より大きく見せたり言ったりすること

(注2) ひからびて:乾ききって

(注3)(もの)()り:物事をよく知っている人

1.

そんな錯覚に捕らえられるとはどういう意味か。

2.

これとは何を指すか。

3.

この文章では、学問をするということをどのような例を使って説明しているか。

4.

筆者は「教養」をどのようなものだと考えているか。

   子どものときから、 忘れてはいけない、 忘れてはいけない、 と教えられ、 忘れたと言っては(しか)られてきた。 そのせいもあって、 忘れることに恐怖心を抱き続けている。 忘れることは悪いことと決めてしまっている。

   学校が忘れるな、 よく覚えろ、と命じるのはそれなりの理由がある。教室では知識を与える。知識を増やすのを目標にする。せっかく与えたものを片端(かたはし)から捨ててしまっては困る。よく覚えておけ。 覚えているかどうか時々試験をして調べる。 覚えていなければ減点(げんてん)して警告(けいこく)する。点はいいほうがいいに決まっているから、 みんな知らず知らずのうちに、 忘れるのをこわがるようになる。

   教育程度が高くなればなるほど、 そして、頭がいいと言われれば言われるほど知識をたくさん持っている。つまり、 忘れないでいるものが多い。頭の優秀さは、 記憶力の優秀さとしばしば同じ意味を持っている。

   ここで、われわれの頭をどう考えるかが問題である。

   ①これまでの教育では、 人間の頭脳を倉庫のようなものだと見てきた。知識をどんどん蓄積(ちくせき)する。倉庫は大きければ大きいほどよろしい。中にたくさん詰まっていればいるほど結構だということになる。

   ②倉庫としての頭にとっては、 忘却(ぼうきゃく)は敵である。 ところが、 こういう人間の頭脳にとっておそるべき敵が現れた。 コンピューターである。 これが倉庫としてはすばらしい能力を持っている。 いったん入れたものは決して失わない。 必要な時には、 さっと引きだすことができる。 整理も完全である。

   コンピューターの出現(しゅつげん)、 普及にともなって、 人間の頭を倉庫として使うことに疑問がわいてきた。 コンピューター人間を育てていたのでは、 本物のコンピューターにかなうわけがない。

   そこで、 ようやく人間の創造性(そうぞうせい)が問題になってきた。コンピューターのできないことをしなくては、 というのである。

   人間の頭はこれからも、 一部は倉庫の役を続けなければならないだろうが、 それだけではいけない。新しいことを考え出す工場でなくてはならない。 倉庫なら、 入れたものを紛失(ふんしつ)しないようにしておけばいいが、 ものを作り出すには、そういう保存保管(ほぞんほかん)の能力だけでは仕方ない。

   第一、 工場に余計なものが入っていては作業能率が悪い。 余計(よけい)なものは処分(しょぶん)して広々としたスペースをとる必要がある。 そうかと言って、全てのものを捨ててしまっては仕事にならない。③整理が大事になる

   倉庫にも整理は欠かせないが、 それはものを順序よく並べる整理である。それに対して、 工場内の整理は、 作業のじゃまになるものを取り除く整理である。 この工場の整理に相当するのが忘却(ぼうきゃく)である。 人間の頭を倉庫としてみれば、 危険視(きけんし)される忘却だが、 工場として能率(のうりつ)を良くしようと考えれば、 どんどん忘れてやらなくてはいけない。

   そのことが今の人間にはわかっていない。 それで、 工場の中を倉庫のようにして喜んでいる人が現れる。 それでは、 工場としても倉庫としても、 両方ともうまく機能しない頭になりかねない。 コンピューターには、 こういう忘却ができないのである。 だから、 コンピューターには倉庫として機能させ、 人間の頭は、 知的工場として働かせることに重点を置くのが、 これからの方向でなくてはならない。

( 外山滋比古「『思考の整理学』 筑摩書房による)

1.

①「 これまでの教育」 とあるが、 どのような教育か。

2.

②「 倉庫としての頭」 とあるが、 どういうことか。  

3.

③「 整理が大事になる」 とあるが、 どういうことか。

4.

この文章で筆者が言いたいことは何か。

 我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を旅行しようと、何をしようと、小さい。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学問はただの大風呂敷(おおぶろしき)(注1)になる。言葉の風呂敷(ふろしき)はいくらでも広げられるから、そうやっているうちに自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、①そんな錯覚に捕えられる。木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる農夫(のうふ)とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界標準の稲を育てたりはできないから、彼らはみな、自分の仕事において賢明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学問をすること、書物に学ぶことは、ほんとうは②これと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたことはみな、我が身ひとつが天地の間でしっかりと生きることだからだ。

 人は世界的にものを考えることなどはできない。それは錯覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を開いていることならできる。我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人間なら、それがどういう意味合いのことかは、もちろん知っている。人は誰でも自分の気質を背負って生まれる。学問する人にとって、この気質は、農夫(のうふ)に与えられる土壌のようなものである。土壌は天地に開かれていなければ、ひからびて(注2)不毛になる。

 与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学問や思想もまた、人の気質に植えられた苗のように育つしかないのではないか。子供は、勉強して自分の気質という土を耕し、水を引き、もらった苗を、書物の言葉を植えるのである。それは、子供自身が何とかやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる書物とともに育つことができる。子供が勉強をするのは、自分の気質という土壌から、

 やがて実る精神の作物を育てるためである。「教養」とは、元来この作物を指して言うのであって、物知(ものし)りたちの大風呂敷(おおぶろしき)を指して言うのではない。

(前田暎樹「独学の精神」による)

(注1)大風呂敷(おおぶろしき):実際より大きく見せたり言ったりすること

(注2)ひからびて:乾ききって

(注3)物知(ものし)り:物事をよく知っている人

1.

①そんな錯覚に捕えられるとはどういう意味か。

2.

②これとは何を指すか。

3.

この文章では、学問をするということをどのような例を使って説明しているか。

4.

筆者は「教養」をどのようなものだと考えているか。

理系の文章は明確な目的を持っている場合が多いので、その目的に応じて読者は文章を読む。このため、目的に合致した文章は満足感を読者に与える。たとえば、「東京都の交通渋滞に関する調査報告書」はそれを知りたい人が読み、その内容が過不足なく記述されていれば100点の評価となる。調査内容が不十分であれば評価は下がり、満足感は少なくなる。

しかし、もし著者と読者のあいだで、その文章を媒体として記述されていること以上の事柄が発見できれば、読者にとって最高の満足感となる。言い換えると、読者が新しい知識を発見する喜びを支援する、あるいはそのきっかけとなる文章こそが、100点以上の評価となる。それは著者と読者の①シナジー効果(二つのものから、それらの合計以上のものが生み出される効果)であり、それをもたらすには、著者は常に読者を意識し、読者とともに問題の解決にあたるという姿勢を持つことで文章に磨きがかかる。

いくら仕事や理系の文章だからといって「AはBだ、覚えておけ」という姿勢の文章では読者の満足感は少ない。むしろ、読者は自分の無知を知り、自己嫌悪に陥り、一方、著者への親近感はなくなり、読む気がしなくなる。文章の目的を達成するために大事なことは、読者が最後まで読んでくれることである。いくら素晴らしい内容が書かれていても、読者が読む気のしない文章は目的を果たすことができない。

学生のレポートで、②それが一番よくわかる。なにしろ提出数が多いので、すべてを完全に理解しようとして読むことは不可能である。結局、最初の数行を読んで、あるいは全体を見渡して、読む気が起こるかどうかが評価に大いに影響する。これは、上司に提出する企画書や、(注1)コンペに応募する提案書などでもまったく同じである。

その意味で、人の読む気を誘う文章であるかどうかは重要である。では、読む気とは何か。それこそがシナジー効果である。

(中略)

読者が自力で新しいことを発見することの支援はなかなか難しい。むしろ、

自分の思考過程を深く分析し、読者と一緒に考えようという姿勢を持つことが最も重要である。読者に与える完全な解答はなくても、解答に向かうひたむきな姿勢を示すことができれば良いのだということである。言い換えれば、ごまかしがなく、技巧を(注2)

弄もてあそばず、大げさにいえば著者の人生観を示すことで、真実に迫ろうという書き手の気持ちが読者に通じるのである。仕事の文章や理系の文章は、一般にはこういう行間の意味は不要と考えられているが、それではの教科書文章となり、人の心に届かない。いくら人の③脳に届いても、心に届かないものは読む気がしなくなり、結局、読者の脳にも届かなくなる。

(三木光範『理系発想の文章術』による)

(注1)コンペ:ここでは、仕事の依頼先を選ぶために企画を競争させるもの

(注2)弄もてあそぶ:ここでは、必要でないのにむやみに使う

(注3)無む味み乾かん燥そうの:味わいがなくてつまらない

1.

シナジー効果とあるが、読者にとってのシナジー効果とはどのようなものか。

2.

それが一番よくわかるとあるが、何が一番よくわかるのか。

3.

脳に届いても、心に届かないとはどういうことか。

4.

理系の文章の書き手はどのような姿勢を持つべきだと筆者は述べているか。

 日本人には①テクニックという言葉に抵抗を感じる人が多いらしい。

「小手先のテクニックではなく、心が大事だ」

「表面的なテクニックではなく、ほんものの内容を身につけるべきだ」

   などと言われる。 テクニックという言葉は常に否定的に扱われる。テクニックは本質と関わりのない小手先の表面的な技術とれる。

   しかし、言うまでもないことだが、テクニックがあるから、物事を実践できる。理念だけ、理論だけでは何もできない。理念を実践するためには、それなりのテクニックが必要だ。いくら理想を高くてもテクニックがなければ、物事を実行できない。テクニックがあってはじめて、理念を現実のものにできる。

   私は、人生のほとんどがテクニックだと考えている。恋愛もテクニック、勉強もテクニック、人付き合いもテクニックだ。

   モーツァルトは②天才だったと言われる。その通りだと思う。 だが、摩訶(まか)不思議な能力がモーツァルトに備わって、音楽が次々と自動的に流れたわけではないだろう。モーツァルトは幼いころから父親に音楽の英才教育を受けた。そうしてさまざまなテクニックを身につけた。天才というのは、たくさんのテクニックを知り、それを適切に用いる能力を持った人間、ということにほかならない。

   人付き合いも、テクニックが必要だ。人に好かれるのも、実はテクニックにほかならない。人付き合いの上手な人は、意識的にテクニックを習得する必要がある。テクニックと割り切ることによって、練習ができる。テクニック自体を練り上げ、上達することができる。そのための修練を積むことができる。コミュニケーション術も、テクニックと考えて習得に努めてほしい。③この心構えがあってこそ、自分のものとして使いこなすことができるようになるはずだ。

   ただし、もちろん、人付き合いのテクニックというのは、人と人が理解し合えるようになるための道具でしかない。テクニックだけを身につけて、本当に理解し合うことを求めなければ、そのテクニックは意味がない。相手を本当に尊敬してもいないのに、テクニックだけで尊敬したふりをしても見破られる。すべてテクニックだということは、テクニックさえあれば心の交流は不要という意味ではない。自分の気持ちをきちんとわかってもらい、心の交流をなしとげる目的のために、テクニックがすべてを決する、という意味にほかならない。それについては誤解しないでいただきたい。

1.

日本人は①テクニックとはどんなものだと感じていると、筆者は言っているか。

2.

筆者は、 ②天才とは、どんな人だと述べているか。

3.

この心構えとは何か。

4.

この文章で筆者が言いたいことは何か。

うちの犬は頭がよくなけれどむやみにほ吠えない。これは犬種の性格である。もうひとつ、絶対にか嚙みつかない。これは訓練士に仕込まれた成果である。大きな犬なので幼児にか嚙みついたら事件になってしまう。

訓練士は二十代の女性でスクーターに乗ってやってきた。訓練時間は週に4回、各30分である。半年近く経っても訓練が終わらないので、いつになったら卒業できるんですか、とたず訊ねた。家庭内での序列がはっきりしたら、と説明する。序列ねえ、どういうことかな、とさらに質問すると、①お宅の坊ちゃんがまだ……。

十年前なので息子は小学生である。体格的にも犬と息子に差がない。うちの犬はまず僕、つぎに妻と気の強い娘に(注1)降参したのだ。だが息子は軟体動物のようにふにゃらふにゃらとしている。寝てばかりいる。起きてもあくびばかりしている。両者は最下位争いを演じたまま(注2)四つに組んで決着がつかないらしい。

動物は序列に敏感なのだ。(中略)

女性の訓練士が説明した。犬をかわいがっているつもりで甘やかし、②腕をがぶりとか嚙みつかれた飼い主がいた。甘やかせばつけ上がるだけ、自分が主人と信じ込んで飼い主をなめた結果である。動物はつねに威嚇しながら序列を確認しているから、仲間同士は本気でけん喧か嘩をしない。相手が強い、とわかれば争わない。けん喧か嘩したら互いに傷つき、厳しい自然界では生き残れないから。

さすがに血のめぐりの悪いわが家の犬も、ある日、息子にゴツンと頭をたた叩かれ、最下位が確定、平和的にす棲み分けが決まり、予算オーバーの訓練は終了した。

動物から教訓を得たわけではないが、家庭内でもタテマエとしての序列がないと混乱がはじまる。おや親じ父の権威の喪失が取り返しのつかないところまできたのは(注3)家父長制を否定しすぎた結果でもある。戦前は長子相続で、次男以下は相続権がなく女性にいたってはその他大勢の扱い、ひどいものだった。そういう状態を復活せよ、と述べているのではない。

職場で女性がもっと管理職に進出できる環境は整えたほうがよいし、僕の経験からして共働きには賛成である。家事も分担したほうがよい。③だが男女平等をはきちがえてはいけない。家庭は動物の巣に似た面がある。権威としての父性、(注4)包容力の母性まで削り取ってはいけない。父親は筋肉質でひげ髯をはやし、母親には柔らかな肌とやさしい笑顔があるように、それらしく演じ分けたほうがよい。頻発する家庭内暴力が役割構造の喪失と無縁ではないからである。

(猪瀬直樹「家」1999年9月26日付朝日新聞朝刊による)

(注1)降参する:負ける

(注2)四つに組む:しっかり向き合って闘うこと

(注3)家父長制:男性の年長者が家族を支配するという制度

(注4)包容力:相手を寛大な気持ちで受け止める力

1.

お宅の坊ちゃんがまだ……とあるが、「まだ」の後に続く言葉はどれか。

2.

腕をがぶりとか嚙みつかれた飼い主がいたとあるが、この犬はどうしてか嚙みついたか。

3.

男女平等をはきちがえてはいけないと言っているが、筆者は「はきちが

える」とどうなると考えているか。

4.

この文章で筆者が最も言いたいことは何か。

問題4 次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

A

   乳幼児期の子どもは、身近な人とのかかわりあい、そして遊びなどの実体験を重ねることによって、人間関係を築き、心と身体を成長させます。ところが乳児期からのメディア(注1)漬けの生活では、外遊びの機会を奪い、人とのかかわり体験の不足を招きます。実運、運動不足、睡眠不足そしてコミュニケーション能力の低下などを生じさせ、その結果、心身の発達の遅れや(ゆが)みが生じた事例が臨床(りんしょう)の場(注2)から報告されています。このようなメディアの弊害は、ごく一部の影響を受けやすい個々の子どもの問題としてではなく、メディアが子ども全体に及ぼす影響の甚大さの警鐘と私たちはとらえています。牸に象徵(注3)機能が未熟な2歳以下の子どもや、発達に問俎のある子どものテレビ画面への早期世接触や長時間化は、親子が顔をあわせ一緒に遊ぶ時間を奪い、言葉や心の発達を妨げます。

B

   専門家からは「テレビをやめて積極的に外遊びをしましょう」「自然の中で遊びましょう」という意見が聞かれますが、お母さんたちは進んでテレビを見せているのではなく、地域に出ても同世代の子どもがいない、昔と比べて自然がなくなった、という問題もあるのだと思います。(中略)
多くの親は、テレビの長時間視聴がよくないことを自覚しており、見せる内容にもを遣っています。生活の中からテレビを排除するだけではなく、一日に六時間も七時間も子どもにテレビを見せる親の背景に何があるのかを考えなければ、問題の根本的な解決にはならないのです。

   したがって、私たちの生活スタイルと、子どもにとって望ましいテレビ視聴のあり方のバランスをとりながら、これらの検証を進める必要があるのではないでしょうか。


(注1) メディア:ここでは、テレビやビデオ
(注2) 臨床(りんしょう)の場:実際の診察、治療の現場
(注3) 象徴機能:ここでは、身の回りのものを、例えば言葉などで表す働き

1.

子どもにテレビを長時間見せることについて、AとBの観点はどのようなものか。

2.

子どもとテレビの関係について、AとBはどのように述べているか。

A

   高速道路というのは、何のためにあるのだろうか。全国どこへでもより早く、便利に行けるようになることで、都市にも地方にも豊かさをもたらす。そういう存在であるベきだ。

   現在のように高額な通行料金が課されるのでは、便利さを求めて企業は都市に集中する。地方にいては条件のいい就職先が見つからないと、若者は都市に向かい、ますます都市に人口が集中する。交通の便がよくなることで地方が活性化し、このアンバランスが解消されれば、都市に集中していた人口が地方に分散し、日本全体の発展が期待できる。

   もちろん高速道路の無料化だけでこれらすべてが実現するわけではない。しかし、地方の活性化のための第一歩になるものだと思う。

B

   最近、高速道路を無料化しろという議論をよく目にするが、ここでちょっと考えてみたい。

   現在、高速道路は有料であることで交通量がある程度抑えられ、その結果、高速走行が可能になっている。しかし、無料化によって交通量が増えれば、走行速度が落ちる恐れがある。現在、高速道路を使って5時間で行ける所が5時間半かかるようになったとしても、大した違いはないと思うかもしれない。ちょっと早く出ればいいのだと。しかし、大量の輸送を必要とする企業にとっては、人件費、ガソリン代などの増大が、高速道路料金を上回るという試算もある。

   金を出さずに時間をかけるが、金を出しても速さを求めるか。選択肢を残してほしいものだ。

1.

高速道路の無料化によって起こると予想されることで、AとBの両方が触れている内容はどれか。

2.

高速道路の無料化について、Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

3.

Aの筆者とBの筆者は、それぞれ何を重視しているか。

A

   マンガやアニメ、ゲームは今や日本の代表的文化であり、その資料は歴史的に貴重な文化財であるにもかかわらず、きちんと保存されてこなかった。ごく最近まで、アニメのセル画やマンガの原画はゴミ同様に廃棄されていた。保存すべきだという意識が制作者にも周囲にもなかった。一方、海外では、このような日本のアニメのセル画を収集し、大切に保存しているコレクターがいる。その展覧会も開かれたほどだ。このままでは日本で生まれ、発展した文化が海外に流出し、日本で研究できなくなるおそれがある。

   したがってこれらの資料を保存し、今後、アニメやマンガに関する幅広(はばひろ)い研究や分析を可能にする施設を建設することが求められる。

   このような施設は、収集・保存や研究活動を安定して行うためにも、経済状況に左右される民間より、国による設置が望ましいと考える。

B

   マンガやアニメはもともと一般の人々の中から生まれ育ってきたものである。その陰にはマンガ界をリードしてきた先人(せんじん)が、若い才能に目をかけて育ててきた歴史がある。こうした民間の中で発展した文化を尊重する気持ちを忘れてはいけない。

   国がマンガやアニメのためにお金を出すことには大いに賛成だが、それなら、たとえば、アニメーターやマンガ家志望の若者を格安(かくやす)で住まわせるアトリエのような住居を提供し、次代を(にな)う才能を育てるというのはどうか。新しい施設を建設するよりずっと安くできる。

   そのほか、メディア芸術祭の賞金を増やし、受賞者に生活費の心配をせず一年間思い切り作品作りに打ちこんでもらうとか、若い芸術家を海外に派遣する制度を拡充(かくじゅう)するとか、やるべきことはたくさんある。

1.

AとBのどちらにも触れられている内容はどれか。

2.

Aの意見とBの意見で、一番違っている点はなにか。

3.

アニメのセル画やマンガの原画が保存されてこなかった理由は何か。

A:

テレビや新聞などで年々深刻化するゴミ問遁が取上げられている。例えば一般的な家庭ごみとして、生ゴミのほかにも食品容器などの過剰包装による廃棄物が多く見られるという報告がある。最近では指定されたゴミ袋を買ってゴミを捨てたり、客に買い物袋の持参を促したりする動きがあるが、ゴミの量に変化は見られない。

もし、自治体が家庭ごみ一個の収集につきoo円と有料化すればゴミは減るかもしれない。ゴミ自体の廃棄にもお金がかかるようになれば、誰もがゴミを出す前に考えるようになるだろう。そうなれば消費者は不必要な包装を断り、使用可能な物まで捨ててしまうことも減少するのではないだろうか。

 

B:

現代社会は数十年前と北較にならないほど便利な生活が可能になった。しかし、不要になった物を再利用することよりも便利さを優先してきた結果、家庭ごみは増え続ける一方だ。

家庭ごみを減量するとめ、現在、ゴミ袋を有料化し消費者が処理費用の一部を負担することになっている。しかし、それだけでは不十分であり、所定の場所でのごみの収集にかかる費用を消費者に負担させようという意見も出ているが、そうなればごみを所定以外の所に隠れて捨てるおそれも出てくる。このような問題を解決せずに安易にこれを実行に移すのには賛成しかねる。

物が生産され、消費者が購入し、不要なものは廃棄されゴミになるという循環を考えると、新しい製品を次々と作りだす生産者も、それに慣れ切ってしまった消費者も便利さに対する意識を変える必要があるのではないか。

1.

AとBが共通して問題だと指摘していることは何か。

2.

家庭ごみ収集の有料化についてAとBはどのように述べているか。

3.

ゴミ問題についてAとBはどのように考えているか。

A

   リハビリテーションという言葉からは、身のまわりのことを行う能力の再獲得をはかる「機能訓練」がまず連想されます。高齢者を対象とした在宅リハビリでは、家庭介護の中で自然に訓練を取り入れること、合併症が出ないよう水分や栄養をとりながら機能回復を目指すことが必要です。ただし、リハビリの本来の目標は、本人がもとの「社会生活」を取り戻すことにあります。それには、身体的な機能の回復ばかりではなく、周囲の人々の受け入れと、必要十分な介護サービスの提供という社会的インフラが不可欠です。ところが、現行の保険制度では在宅介護の家庭は相対的に不利益すらこうむることになり、家族介護者の負担が軽減されているとはとても言えません。こうした社会面の問題が解決されなければ、多くの人が望むような在宅リハビリは普及しないでしょう。

B

   高齢者の場合、医師からリハビリの指示があれば、できるだけ早期にリハビリを始めたほうが回復も早いです。これまでの研究から、手足を動かしたり、車いすに座らせたりするだけでもいい刺激になることや、介助のやりすぎがかえって機能回復を妨げることがわかっています。毎日の生活の中でできることをやり、寝たきりを防いでいくことが肝心です。

   介護やリハビリに関する不安があれば、主治医、ケアマネージャー、作業療法士などの専門家に助言をあおぎ、介護のノウハウを指南してもらいましょう。介護を一時的に代行する訪問介護サービスなども増えています。責任感や世間体から介護を休むことに抵抗を感じる方もいるようですが、家族のあり方が変わり、わずか一~二人で在宅介護が行われる時代です。長く続けるには、息抜きは絶対に必要です。
1.

AとBのどちらでも触れられている情報はどれか。

2.

高齢者のリハビリについて、AとBはそれぞれどのような見方をしているか。

3.

介護者が得られる社会的支援について、AとBはどのように述べているか。