Đề thi luyện kỹ năng Đọc hiểu - JLPT N1

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Hoàn thành
読解
問題1 次の文章を読んで、文章全体の内容を考えて、以下の中に入る最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   イジメの問題は、おそらく現代の教育の最大の問題であって、「落ちこぼれ」や「暴力」と重なることもあるにしても、それ以上に重要な問題としてある。イジメは昔からあったにしても、学校社会と子ども社会が二重であったころには、先生に受け入れられる子が仲間からいじめられたりして、それなりのバランスがあった。このごろではイジメラレっ子は、学校社会からのハミダシであって、先生のほうが内心で暗黙(あんもく)(注1)了解(りょうかい)をしているケースがよくある。「いじめられる側にもそれだけの理由がある」との言が、しばしば教師から語られることは、その背景で理解すべきだろう。

   これは、おとなの社会の反映、もしくは先どりとしてある。これからの社会で、ハミダシをいじめることが進めば、学校以上に陰惨(いんさん)(注2)人間社会が生まれるだろう。この意味でも、イジメの問題は現代の教育にとって重要性を持っている。

(森毅「生きていくのはアンタ自身よ 」PHP研究所)

(注1) 暗黙(あんもく):考えを表に出さないこと

(注2) 陰惨(いんさん)な:暗く悲惨(ひさん)

1.

文章の内容と最も合っているものはどれか。

   長時間飛行機などの乗り物の中で体を動かさないでいると血管の中に血の塊ができて、血管を塞ぎ、時には死ぬことさえあります。この病気は「エコノミー症候群」と呼ばれています。これを防ぐために一番いいことは歩くとです。2~3時間に1回歩くことや軽い運動をするのがいいです。しかし隣の人が寝ていたりするとなかなか席を立つことができないかもしれません。そんな場合は1時間に1回ほど(かかと)や爪先を上下に動かしたりして血の流れを確保するのがいいです。また水分を摂ることも必要です。水やお茶を飲みましょう。よくビールなどを水代わりと言って飲む人がいますが、アルコールは体の中の水分を排出する働きがありますから、かえってよくないです。以上の注意を守って楽しい旅行をしてください。

2.

「エコノミー症候群」を防ぐためにどうしたらいいと言っているか。

   人間は自然を人工化する。 いかにも自然そのもののような錯覚(さっかく)を与えながら、 人間は自然を(こう)(みょう)に人工の風景に変えてゆく。 それが、 人間が豊かに暮らすための新しい自然環境なのだとすれば、 それをとどめることはできまい。 そうしていつの間にか、 山も(へい)()も人間の目的に従った人工の風景に変わってゆく。

   しかし、 絶えず人工化しようとする人の手がかからなくなると、 山も野も、 すぐにもとの姿に返ってゆこうとする。まだまだ人間と自然の勝負は決まったわけではない。 自然の(   ) というものが、 今でもひそかに働いているのである。

( 多田富雄「 独酌余測朝日新聞社による)

3.

(   )に入る最も適当な言葉はどれか。

   日本では、2012年7月から飲食店での生レバーの販売が禁止された。ある食中毒事件を契機に、生肉に対する規制が一気に強化されたのだ。しかし、危険すなわち規制.禁止でいいのだろうか。衛生管理の技術の向上に伴い、現代の消費者は店で提供されるものはすべて安全だと思い込み、食べ物に関する知識が少なく、食に対して完全に受け身になりつつある。安全面をメーカーや飲食店に委ねる消費者と、リスクを恐れる行政が意識を改めない限り、いつか生卵や莿身が食卓から消える日が来るかもしれない。

(注)レバー:食用にする、牛.豚.鷄などの肝臓

4.

筆者の考えに合うものはどれか。

   ある山の中の古びた宿場町(しゅくばまち)、ここは江戸時代、交通の要所で多くの旅人が行き()った所である。ここでは電線をはじめ、今を思わせるものは一切私たちの目に入ってこない。本当に狭く、あっという間に歩ききってしまうほどの場所だが、ここの人たちの「古い街並みを保存しよう」という強い気持ちがひしひしと感じられる。生活の便利さを求めてしまったら、できないことだ。歴史的に重要な場所を無計画な町づくりで台無しにして(注)しまっている所があまりにも多いと感じるのは、私だけだろうか。

(注)台無しにする:めちゃくちゃにすること

5.

本文の内容に合っているのはどれか。

   ()の打ちどころのない人間は、いません。誰でも、どこか欠けています。欠けているところだけみつめると、自分はダメ人間だと思えてきます。劣等感(れっとうかん)とも言います。

   劣等感を忘れるときがあります。それは強いものの仲間に入って、「劣った人間」をばかにするときです。ほんとうは強くないのに、生まれつき強いものの仲間であるような気になって、劣等感から解放されます。

   差別されるものに、劣ったところがあるのでなく、差別するほうに、どこか劣ったところがあるのです。劣ったところを忘れるために、自分たちは強い仲間だという、つくり話をかんがえだします。自分たちは正常の人間だが、相手はきずものだときめつけることもあります。

(松田道雄『私は女性にしか期待しない』可岩波書店)

6.

文章の内容と最も合っているものはどれか。

再見積のお願い

   拝啓

   貴社、益々ご隆盛のこととお喜び申し上げます。

   さて、先般いただいた見積書の件ですが、社内で検討致しました結果、是非お取引を開始させていただきたいと考えております。貴社製品は性能は申し分ないと思いますが、価格の面で考慮いただき、再度見積書を頂けるようにお願い致します。尚、価格で折り合いがつきましたら、納入時期はこちらで考慮させて頂きます。誠に勝手なお願いとは存じますが、よろしくお願いいたします。

7.

手紙の内容について正しいのはどれか。

   日頃(   ひごろ)見なれている景色ー例えば、自分の家の玄関の造りや庭の(たたず)い、などーが、ある時、ふと、まるで初めて見るときのように新しく、珍しくかんられるという経験をしたことはないでしょうか。そのような時、私たちは日常、眼でものをめているつもりで、それでいて実は何も見ていなかったのだということを感じます。

   言葉についても、同じことです。日頃使い慣れている言葉ですから、私たちは自分の使う言葉については何でも分かっているつもりですが、ふとした機会に、実はそれが勝手な思い込みであったことに気づいて、はっとすることがあります

8.

筆者はなぜはっとすることがあると言っているか。

   最近、地域内の複数個所に自転車の貸し出しをする専用ステーションを設けて、自転車シェアリングのサービスを行う自治体が増えている。環境保護や地域おこしをねらいとした事業だ。最寄りの駅から目的地までの移動などに公共の自転車が利用できれば、さぞかし便利だろう。ところが、まだ成功といえる事例は少ない。背景には、どの自治体も、町にあふれかえる個人の自転車の管理に頭を抱えていることがある、人々の駐輪マナーの低下は、駐輪場の不足によってさらにエスカレートしている。まずは目の前の問題をどう解決するか、そっちのほうが先のようだ。

9.

筆者は、自転車シェアリングのサービスを実施することについて、どう考えているか。

   かつては〈制度〉といえば、ほとんど、国家(法的国家)、地方自治体、政党、結社、学校、会社、組合などといった、明確に実定化(注)され、法制化されたもののことしか、考えられなかった。もともとそのような制度は、私たち人間が集団生活を営み、その集団が大きくなりそこでの人間関係が複雑化し間接化するに応じて形づくられたものである。つまり、そうしたなかで社会生活が合理的に運営されていくためには、社会関係そのものが合理化され、客観的に示されねばならなかったのだ。

(注)実定化:人間が作り出した法として定めること

10.

筆者は、制度とはどのようなものだと言っているか。

   欧米人が「個」として確立された自我をもつのに対して、日本人の自我-それは西洋流にいえば「自我」とも呼べないだろうーは、常に自他との相互的関連のなかに存在し、「個」として確立されたものではない、ということであった。

   西洋人からは、この点に関して日本人の無責任性とか、他人志向(しこう)性などと言って非難されることもある。

           (河合隼雄『日本人とアイデンティティーー心理療法家の着想-』講談社)

11.

この点」は何を指しているか。

   “仲が良い家庭”は理想的なようで、一歩間違うと“崩壊した家庭“につながる危うさがある。特に、父親が、社会の厳しさを教え、子どもに社会化を促すという父親本来の役割を果たせないと問題である。子どもの社会的白立には、実際の父親ではなくても「父親」の役目を果たす人が不可欠である。

   ある人が家庭を航海中の船に例えて言った、嵐が来たら、子どもがいくら「こっち来て」と頼んでも、子どもを放っておいて必死に舵取り(注)を続けなければ船は沈む。それなのに、舵取りを放棄して子どもの機嫌を取る親が多いと。

   このような「父親」の不在が、最近、日本の家庭で増えているように感じるのは気のせいだろうか。

(注)舵取り:舵(船の進む方向を決める道具)を操作して、船を定の方向に進ませること

12.

ここでいう「父親」の不在とはどういうことか。

問題2 次の(1)から(5)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

日本の建築は寿命短いが、子売れは木造自体の耐久性から決まるのではない。木造建築でも百年や二百年は持つ。千年以上持たせることも可能である。しかし、構造部材のメンテナンスが必要なので耐久性を考えると大材を用いたほうが良い。しかし、城郭や宮殿、館、寺院仏閣の類でないとなかなか大材を用いることができない。入手も難しいし加工にも手間暇がかかる。また、一般的に木造建築は火事や地震で失われることも少なくない。

日本人は白木の新しい建物を愛したが、時が経つと木の表面が黒ずんでくる。そこで、余裕がある者は、地震火災に遭った時は勿論、ある程度老朽化してくると建て直し、周囲はその建て主のことを「甲斐性がある」といって褒め称えた。しかし、建て直すと言っても、大まかにいえばもとと同じものが建つ。勿論少し大きくなったり小さくなったり間取りが変わったりするが見た目に大差がない。そこで、街並みや風景は長期にわたって維持される。しかも木材はリユース、リサイクルされた。

これは、日本独特更新の文化と呼んでも良い。この典型が伊勢神宮る。二十年ごと隣合うデ敷地に交互に建て直されるが、建てられるものは全く同じである。建物を更新するためには、木材が必要であり、樹木も植林によって更新される。若木のほうが二酸化炭素の吸収能力が優れているから、若木への更新は環境上も評価できる。同時に職人技術も更新される。更新は環境に優しく、人々に仕事を与え、ゆっくりとした変化をもたらす木の国の優れた文化である。

1.

日本の建築は寿命が短いとあるが、なぜか。

2.

これは何を指すか。

3.

筆者は、木造建築が更新されることにはどのような利点があると考えているか。

   仮にあなたが知りあいから、エチオピアで飢餓に苦しむ難民救済のための募金に協力してくれと頼まれたとしよう。はじめから断ってしまえば、多少のうしろめたさは残るもののそれで一応、①事態は収まる。しかし、もし協力を表明したとすると、あなたは、募金箱に百円入れても、千円入れても、一万円入れても「なぜもっと出せないのか」と言われるかもしれないという、「つらい」立場に立たされることになる。

  (中略)先進国が今ある繁栄を獲得した要因となった種々の経済活動は、地球という、人類全体が共有すべき有限の資源を消費した結果であるという視点もありうる。そう考えるなら、南北の経済格差や南の国の飢餓の宿題は、その共有資源を消費した代償として得られた経済活動の果実の偏在に起因するものであり、単に、ある特定の地域の問題ではありえないという議論が妥当性を持つことになる、資源の消費に関しては最大の「貢献国」のひとつである日本の国民としては、自分だけ高い生活水準をエンジョイしつつ、世界に蔓延する飢餓は自分の問題ではないとは言いきれない。

   ②ボランティアが経験するこのような「つらさ」は、結局、自分ですすんでとった行動の結果として分自身が苦しい立場に立たされるという、一種のパラドックスに根ざすものである。

                             (金子郁容「ボランティアもうひとつの情懶社会」岩波書店による)

1.

事態は収まるとは、具体的にはどういうことか。

2.

筆者の考えによると、南北の経済格差や飢餓の問題を引き起こした要因は何か。

3.

ボランティア経験するこのような「つらさ」とは、どのようなものか。

   大体、人間の才能というのは、もし百あるとすると、百を全部出している人は極めて(まれ)(注1)だ。それより一番大事な場面で緊張したときに、もてる力の何パーセントを出せるかによって才能が決まる。練習中でなく、ここ一番というときに百出せる人は少ない。七十か六十か、さらには二、三十しか出せない人もいる。反対に、百十も百二十も出せる人がいるかもしれない。

   ①このあたりの違いは集中力の差だといわれているけど、集中力を高める最大の要因こそ②鈍さなんでね。つまらぬ些事(さじ)(注2)(わずら)わされない、いい意味での唯我独尊(ゆいがどくそん)、自己中心的思考。そういうものがベースになければ、百十も百二十も出ない。こう考えると、③鈍さが才能ということが、よく納得できると思う。

   ところで、このように鈍さばかりを強調すると、「なんでも鈍ければいいのか」と簡単に思い込む人が出てくるかもしれない。この鈍さは、そんなに簡単には見につかないものでね、生来の性格的なもの、育てられた環境や教育、家庭のしつけなど、いろいろなものに影響される。

(渡辺淳一「知的冒険のすすめ」光文社、知恵の森文庫による)

(注1)(まれ):めったにないようす

(注2)些事(さじ):小さいこと

1.

①「このあたりの違い」とは何か。

2.

ここでいう②「鈍さ」とは何か。

3.

どうして③「鈍さが才能」と言っているのか。

   貴重な生物が多い地域には、貴重な言語も多い。そんな調査結果を、米英の研究チームが米学アカデミー紀要に発表した。しかし、その多くの言語は話し手が少なく、英語など一部の言語が国際的に広がることで、①「絶滅」の危険性があるという。

   チームは約6900の言語について地域的な特徴を分析。半分近い約3200の言語は、固有の生物が多いが、急速に生息地が失われている②「ホットスポット」と呼ばれる35 の地域で使われていた。ホットスポットは地上の約2.3%を占めるに過ぎないが、木や草、シダなどの約50%と、陸上に住む(注)脊椎(せきつい)動物の約40%がその地域だけに住む固有種だという。

   約2200の言語はその地域に固有の言葉で、約1500の言語は1万人以下、約500の言語は1千人以下の人しか話していなかった。

   葉と生物の多様性が同じ地域で見られる理由について、チームは「複雑で、地域ごとに異なるだろう」として詳しくは言及していないが、「人間の国際的な経済活動は、貴重な言語にとっても潜在的な脅威になっている」と指摘している。

                                                             (朝日新聞2012年6月13日付夕刊による)

(注)脊椎動物:背骨を持つ動物 

1.

①「絶滅」の危険性があることがわかったものは何か。

2.

②「ホットスポット」の特徴として正しいものはどれか。

3.

今回の米英チームによる調査を通じて、どのようなことが明らかになったか。

   ハチドリという鳥を知っているだろうか。鳥のうちでいちばん小さく、体長わずか3センチという昆虫(こんちゅう)のような種類さえある。小さな巣を作って、 豆粒(まめつぶ)ぐらいの卵を産み、 花の(みつ)を食物にしている。 小さな(つばさ)をプーンと(ふる)わせ、 飛びながら花の(みつ)を吸うハチドリを初めて見た人は、 なにか童話(どうわ)の世界にいるような気がするに違いない。

   でも、 この鳥はこの現実の世界に生きている。①こんな小さな鳥が生きるということはそれ自体が不思議である。 なぜなら、 こんな小さな鳥は生きていられるはずがないからである。

   鳥は我々と同じく、 温血(おんけつ)動物つまり恒温(こうおん)動物である。 体温は外気(がいき)と関係なく一定に(たも)たれている。それが保てなくなったら、 人間が凍死(とうし)するのと同じように死んでしまう。 ところが、 体がこんなに小さいと、 体積にくらべて体の表面積(ひょうめんせき)(いちじる)しく大きくなる。つまり、 体温を保つのに必要な熱を発生する体の大きさの割に、 熱が逃げて行く表面積が大き過ぎるのである。 そこで、 ハチドリが生きていくのに込要な体温を保つには、 体の表面から逃げていく熱を絶えず(おぎな)っていなくてはならない。 そうでないと体温はたちまち下がってしまう。

   ハチドリは熱帯にいるから、 そんなことはないだろうと思う人もいるかもしれない。 しかし、 実際に ②ハチドリの「 経営状態」 、 つまり食べたもの( 収入) と体温維持のための熱発生( 支出) の関係を調べてみると、 入るそばから支出されて行き、 何とか収支が合うようにできていることがわかる。収入が断たれたら、 数時間のうちに倒産(とうさん)してしまう。つまり、 食べるのをやめたら、 たちまち熱発生も止まり、 体温が降下(こうか)して、 凍死してしまうのである。

   ハチドリも夜は木の枝にとまって眠らなければならない。 毎日12時間近く食べずに過ごすわけである。 本来なら、 この間にエネルギーの(たくわ)えが()き、 体温降下と凍死を招くはずである。 にもかかわらずハチドリは、 何万年もの間ちゃんと生きている。 なぜか。

   それは、 彼らが毎晩、 冬眠(とうみん)するからである。 熱帯の夜はけっして暑くない。気温は20度を割ることさえある。 ハチドリは夜が来ると、 温血(おんけつ)動物であることをやめる。 体温調節をやめて、 爬虫類(はちゅうるい)のような冷血(れいけつ)動物になってしまうのだ。体温は一気に気温のレベルにまで下がる。 呼吸もごくわずかになり、 筋肉も動かなくなる。 だから、 夜、 眠っているハチドリはかんたんに手で捕まえられるそうである。 そして、 朝が来て気温が上がると、 ハチドリの体温も上がる。 体温が一定の温度を超すと、 ハチドリは目覚め、 恒温(こうおん)動物となって、 花の(みつ)を求め、 飛び立つのである。

   ③そんなわけで、 この宝石のように美しいハチドリは、 一年中長雨(ながあめ)の降らない、 昼は一年中気温が高くしかも夜はかなり冷える土地、 主に中南米(ちゅうなんべい)の一部にしか住めないことになる。 もし、 中南米の気候が変わって、 雨が多くなるか、 冬ができるか、 夜も暑くなるかしたら、 そのどの一つの変化はろによってもハチドリは(ほろ)びるだろう。 その誕生とともに持って生まれた遺伝(いでん)仕組(しく)みと環境とが矛盾するからである。

( 日高敏隆「 人間についての寓話」 平凡杜による)

1.

①「こんな小さな鳥が生きているということはそれ自体が不思議である」 のは、 なぜか。

2.

ハチドリの「 経営状態」 とは、 どういう状態か。

3.

③「そんなわけ」 とは、 どういうことか。

4.

この文章から、 ハチドリについてわかることはどんなことか。

   人間は、所詮(しょせん)、時代の子であり、環境の子である。わたしたちの認識は、自分の生きてきた時代や環境に大きく左右される。ある意味、閉じ込められているといってもいい。認識できる「世界」はきわめて限定的なのであり、時代や環境の制約によって、認識の鋳型(いがた)(注1) ができてしまうから、場合によっては、大きく(ゆが)められた「世界」像しか見えなくなることもある。わたしたちは①そういう宿命を背負っているのである。

   だから、「世界を知る」といいつつ、実は、偏狭(へんきょう)な認識の鋳型(いがた)で「世界」をくり()いて(注2) いるだけということが生じたりする。鋳型(いがた)が同じであるかぎり、断片的な情報をいくら集めたところで、「世界」の認識は何も変わらない。固まった世界認識をもつことは、「世界」が大きく変化する状況では非常に危険なことである。

   一方で、これほど情報環境が発達したにもかかわらず、「世界を知る」ことがますます困難になったと感じている人も増加している。果てしなく茫漠(ぼうばく)(注3) と広がり、しかも絶えず激動する「世界」が、手持ちの世界認識ではさっぱり見えなくなってきているからだ。たしかに、ただ漫然(まんぜん)とメディアの情報を眺めているだけでは激流(げきりゅう)()み込まれてしまう。

   いまこそ、時代や環境の制約を乗り越えて、[世界を知る力」を高めることが痛沏に求められているのではないか。

   もちろん、時代や環境の制約から完全に自由になることはない。しかし、凝り固まった認識の鋳型(いがた)をほぐし、世界認識をできるだけ柔らかく広げ、自分たちが背負っているものの見方や考え方の限界がどこにあるのか、しっかりとらえ直すことはできるはずだ。

(注1)鋳型(いがた):ここでは、画一化した型

(注2) くり()いて:ここでは、切り取って

(注3)茫漠(ぼうばく):広がりがあり過ぎて、はっきりしない様子

1.

そういう宿命とはどう意味か

2.

「世界を知る」ことがますます困難になったのはなぜか。

3.

筆者は、「世界を知る力」を高めるためにできることは何だと考えているか。

技術者にとってレース車を開発するというのは、非常に魅力があるようなのだ。

それはそうだろう。市販車の開発であれば、コストのことや工場のことを考えなければいけないので、自分の考え出した創意工夫を必ずしも反映できるわけではない。いいモデルを出したからといって、営業の力が弱ければ売れるとは限らない(少なくとも、多くの開発技術者はそう思って(注1)は歯軋りをしているに違いない)。しかし、レース車であれば、ある程度、採算無視で色んなことにトライできる。何よりも、営業力とか他の要素に邪魔されることなく、①どんな大メーカーを相手にも対等に優劣を争うことができるわけだ。

逆にいうと、言い訳のない世界でもある。敵よりコンマ1秒でも遅れをとれば負けるのだ。そして、それは、はっきりとその場で目に見える。(中略)

目標設定も単純だ。市販車開発なら、時にはアメリカとおう欧州の両市場で売れる車を作ってくれると営業から要求されたりする。そこでは技術的に妥協せざるを得ないが、レースは絶対的な速さだけを目指せばいいのだ。その代わり、自分の実力が今どうであれ、敵の車が75秒で(注2)サーキットを1周していれば、それより速いタイムで走る車をつくらないと意味がないのだ。②出来る、出来ないを論じる余地は全くない。また、お分かりのように、他チームの車の真似だけをしていれば、決して「最速」にはならないのも真実なのだ。

(田中詔一『ホンダの価値観―原点から守り続けるDNA』による)

(注1)は歯ぎし軋りをする:ここでは、悔しく思う

(注2)サーキット:レース用のコース

1.

どんな大メーカーを相手にも対等に優劣を争うことができるとあるが、なぜか。

2.

出来る、出来ないとあるが、何が出来る、出来ないのか。

3.

この文章によると、レース車の開発は、技術者にとってなぜ魅力的なのか。

   ほんとうに悲しいときは言葉にできないぐらい悲しいといいます。ですから、小説の中で「悲しい」と書いてしまうと、ほんとうの悲しみは(えが)ききれない。言葉が壁になって、その先に①心をはばたかせることができなくなるのです。それはほんとうに悲しくないことなのです。人間が悲しいと思ったときに心の中がどうなっているのかということは、ほんとうは言葉では表現できないものです。けれども、それを物語という(うつわ)を使って言ようせん葉で表現しようとして(ちょう)(せん)し続けているのが小説なのです。「主題は何でしょう、二十字以内で答えなさい」というようなテストがあったとして、その二十字がまず浮かんでくるのであれば、それは②小説として書かれる必要性を持っていないと思います。ですから、「テーマさえしっかりしていれば、いい小説が書ける」というのは(げん)(そう)です。テーマは後から読んだ人が勝手にそれぞれ感じたり、文芸評論家の方が論じてくださるものであって、③自ら書いた本人がプラカードに書いて(かか)()つものではないと考えております。

1.

心をはばたかせることができなくなると筆者が考えるのはなぜか。

2.

小説として書かれる必要性を持っていないとはどういうことか。

3.

自ら書いた本人がプラカードに書いて(かか)()つものではないとはどういうことか。

   人間の肉体は、 ①自然の環境変化に対しては、 かなり高度の適応を示す。しかし、 ②人工的な環境変化に対しては、 適応力が格段(かくだん)に落ちる たとえば、 鉄分は血液中のヘモグロビンの生成(せいせい)のために不可欠の物質である。 鉄分の摂取(せっしゅ)が足りないと貧血(ひんけつ)になる。この鉄分が過剰(かじょう)に摂取されると、 不必要な分は自動的に体外に排出(はいしゅつ)されてしまう。 人体の鉄分の吸収能力を調査してみると、 個人によって、 また、 同一人物でも日によって、 吸収能力が変化することが分かった。つまり、 体内の鉄分の量が増加すれば吸収能力は減り、 鉄分が減れば吸収能力が増すというシステムになっているのだ。

   もし、 水銀(すいぎん)やカドミウムについても、 これと同じような過剰摂取に対する適応システムが人体に(そな)わっていれば、 これらの人体に有害な物質によって発生した水俣(みなまた)病やイタイイタイ病などの公害問題は起こらずに済んだだろう。

なぜ、 人間の肉体は、 鉄分の過剰摂取に対しては自己を防衛することができても、 水銀やカドミウムに対しては防衛できないのか?

   それは、 鉄分がほとんどあらゆる食物に含まれていて、 つねに人体に入ってくることが予想されているのに対して、 水銀やカドミウムは、 自然状態の人間には入ってくるはずがないものだからである。 責められるべきなの は、 (  A ) ではなく、 (  B ) なのである。

( 立花隆「 文明の逆説」 講談社による)

1.

①「 自然の環境変化に対しては、 かなり高度の適応を示す」 例として正しいものはどれか。

2.

②「 人工的な環境変化に対しては、 適応力が格段に落ちる」 例として正しいものはどれか。

3.

(  A ) と(  B ) に入る最も適当な言葉はどれか。

問題3 次の文章を読んで、質問に答えなさい。答えは、1・2・3・4から最もよいものを一つえらびなさい。

  我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を旅行しようと、何をしようと、小さい。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学問はただの大風呂敷(おおぶろしき)(注1) になる。言葉の風呂敷(ふろしき)はいくらでも広げられるから、そうやっているうちに自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、①そんな錯覚に捕らえられる。木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる農夫(のうふ)とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界標準の稲を育てたりはできないから、彼らはみな、自分の仕事において賢明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学問をすること、書物に学ぶことは、 ほんとうは②これと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたとはみな、我が身ひとつが天地の間でしっかりと生きることだからだ。

   人は世界的にものを考えることなどはできない。それは錯覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を開いていることならできる、我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人間なら、それかどういうのことかは、もちろん知っている。人は誰でも自分の気質を背負って生まれる。学問する人にとって、この気質は、農夫(のうふ)に与えられる土壌ようなものである。土壌は天地に開かれてなければ、ひからびて(注2)不毛になる。

   与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学問や思想もまた、人の気質にえられた苗のように育つしかないのではないか。子供は、勉強して自分の気質という土を耕し、水を引き、もらった苗を、書物の言葉を植えるのである。 それは、子供自身が何とやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる書物とともに育つことができる。子供が勉強をするのは、自分の気質という土壌から、やがて実る精神の作物を育てるためである。「教養」とは、元来この作物を指して言うのであって、(もの)()り(注3) たちの大風呂敷(おおぶろしき)を指して言うのではない。

(注1)大風呂敷(おおぶろしき):実際より大きく見せたり言ったりすること

(注2) ひからびて:乾ききって

(注3)(もの)()り:物事をよく知っている人

1.

そんな錯覚に捕らえられるとはどういう意味か。

2.

これとは何を指すか。

3.

この文章では、学問をするということをどのような例を使って説明しているか。

4.

筆者は「教養」をどのようなものだと考えているか。

   純粋な自分に強い(あこが)れを覚える現代の若者たちは、かえって自分を見失い、自己肯定感を損なうという事態におちいっている。そのため、人間関係に対する依存度がかつてよりも格段に高まっている。しかも、自分の本質を生まれもった固有のものと感じているため、付きあう相手もそれと合致した人でなければならないと考えるようになっている。こうして、互いの関係も狭い範囲で固定化される傾向にある。ところが、特定の関係だけに過剰に期待をかけすぎると、それは逆に息苦しいものともなる。

   さらに、自分の純粋さを脱社会的に求めるメンタリティは、そのまなざし(注1を自分の内へと向ける傾向が強いため、他人と共有できる部分がどんどん減っていき、欲求の対象や価値観もおのずと多様化してくる。ある似かよった傾向を示す若者たちの一群をさして、かつては「○○族」のような(くく)り方(注2)をすることが可能だったが、昨今ではそこまでの強い同質性が見られなくなり、「○○系」といった緩やかな(くく)り方しかできなくなっている。その結果、狭く固定化された人間関係の内部においてすら、ものごとの判断をめぐって相手と①衝突する可能性が高くなっている

   多くの人びとの関心が似かよっており、ほぼ同じ方向を見ていた時代なら、たとえ各人が自由にふるまったとしても、そこには重なり合う部分が少なくなかった。しかし、それぞれが内閉的に自分らしさを追求するようになると、互いの価値観や欲求の内実も多様化する。(中略)

   このように、純粋な自分に対する(あこが)れはかつて以上に高まっているのに、それをサポートするための人間関係を維持する条件のほうはかつて以上に厳しくなっている。互いの理解可能性を素朴(そぼく)に信じて、それを前提に人間関係を築いていくことはもはやできない。「分かり合えない感」と若者たちが表現するように、むしろ理解不可能性を前提とした人間関係を築いていく技術の必要性が高まっている。彼らは、じゅうぶんには分かりあえないかもしれないことを、じゅうぶんに分かりあっている。「優しい関係」とは、このようなアイロニカルな(注3状況を乗り切るために、互いの対立の回避を最優先の課題として、彼らが身につけた②人間関係のテクニックである。(中略)

   大人たちの目には、現在の若者たちの人間関係が、コミュニケーション能力の不足から希薄化(注4しているように映るかもしれない。しかし、実態はむしろ逆であって、かつてより葛藤(かっとう)(注5)火種(ひだね)が多く含まれるようになった人間関係をスムーズに営んでいくために、高度なコミュニケーション能力を駆使して絶妙な(注6)距離感覚をそこに作り出そうとしている。

(土井隆義 『友だち地獄-「空気を読む」世代のサバイバル』筑摩書房による)

(注1)まなざし:視線

(住2)(くく)り方:まとめ方

(注3)アイロニカルな:皮肉な

(注4)希薄化:薄くなること

(注5)葛藤(かっとう)火種(ひだね):ここでは、人と人との対立の原因

(注6)絶妙な:とても上手で、すぐれていること

1.

現代の若者の特徴として、筆者があげているものはどれか。

2.

衝突する可能性が高くなっているのはなぜか。

3.

筆者は、現代に必要な②人間関係のテクニックはどのようなものだと述べているか。

4.

筆者の述べていることと合っているものはどれか。

   かつてアラビア半島の奥地、サウジアラビアのサバクに、ベドウィン遊牧民の生活を取材するため住み込んだことがある。サバクの生活を切りあげて首都リヤド市に帰り、ホテルに泊まっていたとき、わたしの部屋は314号室だった。ある日のこと、受付で自分の番号を言ってカギをもらい、部屋の前まで行ったとき、カギは別室(316号)のものであることに気づいた。受付に戻ってカギの番号を見せながら、「部屋に入れませんでしたよ」と、相手を責めないための心づかいで、わたしは微笑しながら言った。全く予期しなかった答えが返ってきた。一「あなたが間違った番号を言ったのです」

   わたしが予期していたのは「や、これは失礼しました」というひとことなのだ。このとき、もしわたしが初めてアラブと接したのだったら、「あるいは自分が違った番号を言ったのかもしれない」と思っただろう。しかし既に彼らのものの考え方をサバクで学んでいたわたしは、「まさにベドウィン的だ」と思っただけであった。①ベドウィン的な考え方によれば、自分の失敗を認めることは無条件降伏(こうふく)を意味する。例えば皿洗いの仕事をしている人が百円の皿を割って、もし自分の過失を認めたら、相手がベドウィンなら弁償金を千円要求するかもしれない。だから皿を割ったアラブは言う。「この皿は今日割れる運命にあった。おれの意志と関係ない」

これが日本ならどうだろう。普通の日本人だったらこの場合(ただ)ちに言うにちがいない。「まことにすみません」丁寧(ていねい)な人はさらに、「わたしの責任です」などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかしこの美徳は、世界に流用する美徳ではない。まずアラブは正反対。インド人もアラブに近いだろう。フランス人だ「イタリアの皿ならもっと丈夫だ」というようなことを言うだろう。

   わたし自身の体験では狭すぎるので、多くの知人・友人または本から、このような「②過失に対する反応」の例を採集した結果、どうも③大変なことになった。世界の主な国で、皿洗いの人が皿を割って直ちに謝る習性があるところは実に少ない。「わたしの責任です」などとまで言ってしまうお人よしは、まずほとんどない。日本人とアラブとを正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラブ寄りである。中国やベトナムもしかり。ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうにもないささいなこと(体に触った、ゲップをした、など)であるかぎり、「すみません」を日本人よりも軽く言う。この謝罪は、「謝罪」というよりもむしろ一種の慣習である。慣習だからこそ、社会をスムーズに動かす潤滑油として大切なのだ。

   だが、日本人と確実に近い例をわたしは知っている。それは、かつて訪れたことのあるニューギニアのモニ族や北極地方のエスキモーである。モニ族は、わたしのノートをあやまって破損したときでも、カメラのレンズに土を付けたときでも、直ちに「アマカネ(すみません)」と言って恐縮した。そして、さまざまな国の歴史を比較検討してみると、おざっぱにいってこんな傾向のあることがわかる。「異民族の蹂躙(じゅうりん)(注)による悲惨な体験をもった民族ほど、自分の過失を認めたがらない」

   日本人やエスキモーやモニ族は、異民族による蹂躙の恐ろしい体験を、一部を例外として、歴史上あまりもたなかったようだ。

   基本的なものの見方について考えると、ベドウィンの特徴、ひいてはアラブの特徴は、日本の特殊性よりもずっと普遍的なのだ。わたしたちの民族的性格は、アラブ諸国やヨーロッパや中国よりも、ニューギニアにより近いとさえ思われる。探検歴の最も豊富な日本人の一人、中尾佐助(なかおさすけ)教授にこの話をすると、教授は言った。—-「④日本こそ世界の最後の秘境かもしれないね

(本多勝一「民族と文化」「国語3」光村図書による)

(注)蹂躙(じゅうりん):暴力や権力によって他の権利を侵したり、社会秩序を乱したりすること

1.

①「ペドゥィン的」とはどういうことか。

2.

③「大黕こと」とは何か。

3.

④「日本こそ世界の最後の秘獎かもしれないね」とはどういうことか。

4.

②「過失に対する反応」がだいたい同じと考えられる組み合わせはどれか。

   国内旅行中、新幹線で隣り合った男性と世間話をしていたら、実は彼の恋人がよく昼ご飯を食べに行くレストランが、自分の妻の友人が経営する店だった---。こういう出来事に出くわすと、人は「世間って狭いもんだねえ」と感激し、なにか運命的なつながりを感じるものである。もし、この2人が男女であったりすれば、この運命的な偶然のー致をきっかけに距離が急速に近くなり、場合によっては結婚に発展することだって十分にありうる。

   だが、①こうした出会いというのは本当に運命的なのだろうか?

   仮に日本の人口を1億人として、一人一人が1,500人ずつの知人を持ち、彼らが全国に散らばっているとする。そして、どこかで出会った見知らぬ人と、②間に2人の人間をはさんでなんらかのつながりがある確率はほぼ100%に近いのである。

   それでも冒頭のような出来事にめったにお目にかからないのは、平均的な日本人に知人が1,500人もいないとか、その知人が全国に散らばっていないということもあるが、なによりもお互いに自分のすべての知人について語り合うということがないからだ。

   根気よく世間話を続ければ、「実はお互いの知人同士が知人」という確率は、私たちが思っている以上に高い。世間は本当に狭いのである。

   ③ある心理学者がこんな実験をした。彼は無作為に選んだ人たちに書類を渡し、それを「Aさんに届けてほしい」と依頼した。書類を渡された人たちは、Aさんとはまったく面識はないし、共通の友人・知人もいない。その学者は「目標の人物をもっとも知っていそうな知人に書類を渡し、書類を受け取った人はさらにその知人へと、その人物にたどりつくまで同じことをくり返すように」と指示したのだ。こうしたサンプルを数多く集めることで、見知らぬ同士が何人の人をはさんでつながりを持っているかを調べよ。うとしたわけだ。

   結果は「知らない人同士の間に介在する人の数は2〜10人。5人がもっとも平均的」というものであった。つまり、どんなにエラい(注1)人や有名なスターでも、彼らとあなたの間はわずか数人の人たちによって隔てられているに過ぎず、何かのきっかけで彼らと知り合いになる可能性はあるし、逆に彼らに関するさまざまな情報や秘密がウワサ(注2)として伝わってくることもあるはずだ。

   確率の世界では、世間というのは我々が考えている以上に狭くて、人びとが(みつ)かに関連しあう空間なのである。

(注1) エラい:偉い 

(注2) ウワサ:噂

1.

こうした出会いというのは本当に運命的なのだろうかとあるが、筆者は確率から考えて、こうした出会いをどう(とら)えているか。

2.

間に2人の人間をはさんでなんらかのつながりがあるとは、具体的にどういうことか。

3.

③ある心理学者がこんな実験をしたとあるが、筆者はその結果についてどのように考えているか。

4.

筆者が考えている、運命的な出会いが少ない最も大きい原因は何か。

   子どものときから、 忘れてはいけない、 忘れてはいけない、 と教えられ、 忘れたと言っては(しか)られてきた。 そのせいもあって、 忘れることに恐怖心を抱き続けている。 忘れることは悪いことと決めてしまっている。

   学校が忘れるな、 よく覚えろ、と命じるのはそれなりの理由がある。教室では知識を与える。知識を増やすのを目標にする。せっかく与えたものを片端(かたはし)から捨ててしまっては困る。よく覚えておけ。 覚えているかどうか時々試験をして調べる。 覚えていなければ減点(げんてん)して警告(けいこく)する。点はいいほうがいいに決まっているから、 みんな知らず知らずのうちに、 忘れるのをこわがるようになる。

   教育程度が高くなればなるほど、 そして、頭がいいと言われれば言われるほど知識をたくさん持っている。つまり、 忘れないでいるものが多い。頭の優秀さは、 記憶力の優秀さとしばしば同じ意味を持っている。

   ここで、われわれの頭をどう考えるかが問題である。

   ①これまでの教育では、 人間の頭脳を倉庫のようなものだと見てきた。知識をどんどん蓄積(ちくせき)する。倉庫は大きければ大きいほどよろしい。中にたくさん詰まっていればいるほど結構だということになる。

   ②倉庫としての頭にとっては、 忘却(ぼうきゃく)は敵である。 ところが、 こういう人間の頭脳にとっておそるべき敵が現れた。 コンピューターである。 これが倉庫としてはすばらしい能力を持っている。 いったん入れたものは決して失わない。 必要な時には、 さっと引きだすことができる。 整理も完全である。

   コンピューターの出現(しゅつげん)、 普及にともなって、 人間の頭を倉庫として使うことに疑問がわいてきた。 コンピューター人間を育てていたのでは、 本物のコンピューターにかなうわけがない。

   そこで、 ようやく人間の創造性(そうぞうせい)が問題になってきた。コンピューターのできないことをしなくては、 というのである。

   人間の頭はこれからも、 一部は倉庫の役を続けなければならないだろうが、 それだけではいけない。新しいことを考え出す工場でなくてはならない。 倉庫なら、 入れたものを紛失(ふんしつ)しないようにしておけばいいが、 ものを作り出すには、そういう保存保管(ほぞんほかん)の能力だけでは仕方ない。

   第一、 工場に余計なものが入っていては作業能率が悪い。 余計(よけい)なものは処分(しょぶん)して広々としたスペースをとる必要がある。 そうかと言って、全てのものを捨ててしまっては仕事にならない。③整理が大事になる

   倉庫にも整理は欠かせないが、 それはものを順序よく並べる整理である。それに対して、 工場内の整理は、 作業のじゃまになるものを取り除く整理である。 この工場の整理に相当するのが忘却(ぼうきゃく)である。 人間の頭を倉庫としてみれば、 危険視(きけんし)される忘却だが、 工場として能率(のうりつ)を良くしようと考えれば、 どんどん忘れてやらなくてはいけない。

   そのことが今の人間にはわかっていない。 それで、 工場の中を倉庫のようにして喜んでいる人が現れる。 それでは、 工場としても倉庫としても、 両方ともうまく機能しない頭になりかねない。 コンピューターには、 こういう忘却ができないのである。 だから、 コンピューターには倉庫として機能させ、 人間の頭は、 知的工場として働かせることに重点を置くのが、 これからの方向でなくてはならない。

( 外山滋比古「『思考の整理学』 筑摩書房による)

1.

①「 これまでの教育」 とあるが、 どのような教育か。

2.

②「 倉庫としての頭」 とあるが、 どういうことか。  

3.

③「 整理が大事になる」 とあるが、 どういうことか。

4.

この文章で筆者が言いたいことは何か。

   コミュニケーションは、響き合いである。①

 「打てば響く」という言葉がある。ひとこと言えばピンときてわかってくれるということだ。鐘を撞いたときに、ゴーンと鳴り響く。あの振動の感触が、コミュニケーションの場合にもある。二人で話しているときに、二つの身体が一つの響きで充たされる。そんな感覚が、話がうまくできているときに訪れることがある。これはそれほど奇跡的なことではない。(中略)

   私たちは言葉でのやりとりをコミュニケーションの中心だと考えがちだ。しかし、言葉を使いはじめる以前までの膨大な峙問、人類は存在してきた。その間にもコミュニケーション当然成り立っていたはずだ、集団で暮らしている状態でコミュニケーションがないということは考えられない、動物園の袋山を見ていると、 ②それがよくわかる。

   猿山にはコミュニケーションがあふれている。あちらこちらで、もみ合いが起こっている。誰かがトラブルを引き起こし、また別の猿が加わって事態をややこしくさせる、感情をむき出しにして相手に伝え合う。自分の思いをそれぞれが通そうとする。思いがぶつかり合い、身体がもみ合うことで、現実が推移していく。ここには人間の使うような言語はないが、コミュニケーションはふんだんにある。猿山の別の所では、母猿が小猿のノミをとってやっている。母親の指先の動き一つひとつが、小猿の心を動かしている。猿山の中でそれぞれが居場所を見つけ、時折移動しては関わり合う。この距離感覚自体が、コミュニケーション力なのだ。

   響く身体、レスポンスする身体。この観点から猿山を見ていると、猿の中には冷えた響かない身体は見つけられない。一人で部屋に閉じこもってテレビを見たり、パソコンをいじったりする空間がないこともその一因だろう。推測だが、一人でこもることのできるきわめて快適な環境を与えたとすれば、そこに引きこもり続けた猿は仲間と響き合う身体を徐々に失っていく。だろう。使う必要のない筋肉や能力は衰えていく。使わなければ、力は落ちていく。

   言語的コミュニケーションは、身体的コミュニケーションを基盤にしている。動物行動学の研究は、動物たちが身体的コミュニケーション能力にあふれていることを教えてくれる。人間は言語という精緻な記号体系を構築した。それによって高度な情報交換が可能になった。しかし、そのー方で、身体的コミュニケーションの力が衰退する条件ができてしまった。

(齋藤孝 『コミュニケーション力」岩波書店による)

(注) ノミ:ほ乳類や鳥類に寄生する小さい虫

1.

①コミュニケーションは、響き合いであるとは、どういう意味かか。

2.

②それとは何か。

3.

猿同士のコミュニケーションにはどのような特徴があるか。

4.

③条件とはどういう意味か。

問題4 次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

A

乳幼児期の子どもは、身近な人とのかかわりあい、そして遊びのなどの実体験を重ねることによって人間関係を築き、心と身体を成長させます。ところが乳幼児期からのメディア(注1)清けの生活では、外遊びの機会を奪い、人とのかなわり保験の不足を招きます。実際、運動不足、睡眠不足そして、コンミュニケーション能力の低下などを生じさせ、その結果、心身の発達の遅れや(ゆが)みが生じた事例が臨床(りんしょう)の場(注2)から報告されています。このようなメディアの弊害は、ごく一部の影響を受けやすい個々の子どもの問題としてではなく、メディアが子ども全体に及ぼす影響の甚大さの警鐘と私たちはとらえています。特に象微機能(注3)が未熟な2歳以下の子どもや、発達に問題のある子どものテレビ画面への早期接触や長時間化は、息子が顔をあわせ一緒に遊ぶ時間を奪い、言葉や心の発達を妨げます。

(社団法人日本小児科医会

B

専門家からは「テレビをやめて積極的に外遊びをしましょう」「自然の中で遊びましょう意見が聞かれますが、お母さんたちは進んでテレビを見せているのではなく、地域に出ても同世代の子どもがいない、昔と比べて自然がなくなった、という問題もあるのだと思います。(中略)多くの親は、テレビの長時間視聴がよくないことを自覚しており、見せる内容にも気を遣ってす。生活の中からテレビを排除するだけではなく、一日に六時間も七時間も子どもにテレビを見せる親の背景に何があるのかを考えなければ、問題の根本的な解決にはならないのです。

したがって、私たちの生活スタイルと、子どもにとって望ましいテレビ視聴のあり方のバランスをとりながら、これらの検証を進める必要があるのではないでしょうか。

(小西行郎「早期教育と脳」による)

(注1)メディア:ここでは、テレビやビデオ

(注2)臨床(りんしょう)の場:実際の診察、治療の現場

(注3)象徴機能:ここでは、身の回りのものを、例えば言葉などで表す働き

1.

子どもにテレビを長時間見せることについて、AとBの観点はどのようなものか。

2.

子どもとテレビの関係について、AとBはどのように述べているか。

A

   リハビリテーションという言葉からは、身のまわりのことを行う能力の再獲得をはかる「機能訓練」がまず連想されます。高齢者を対象とした在宅リハビリでは、家庭介護の中で自然に訓練を取り入れること、合併症が出ないよう水分や栄養をとりながら機能回復を目指すことが必要です。ただし、リハビリの本来の目標は、本人がもとの「社会生活」を取り戻すことにあります。それには、身体的な機能の回復ばかりではなく、周囲の人々の受け入れと、必要十分な介護サービスの提供という社会的インフラが不可欠です。ところが、現行の保険制度では在宅介護の家庭は相対的に不利益すらこうむることになり、家族介護者の負担が軽減されているとはとても言えません。こうした社会面の問題が解決されなければ、多くの人が望むような在宅リハビリは普及しないでしょう。

B

   高齢者の場合、医師からリハビリの指示があれば、できるだけ早期にリハビリを始めたほうが回復も早いです。これまでの研究から、手足を動かしたり、車いすに座らせたりするだけでもいい刺激になることや、介助のやりすぎがかえって機能回復を妨げることがわかっています。毎日の生活の中でできることをやり、寝たきりを防いでいくことが肝心です。

   介護やリハビリに関する不安があれば、主治医、ケアマネージャー、作業療法士などの専門家に助言をあおぎ、介護のノウハウを指南してもらいましょう。介護を一時的に代行する訪問介護サービスなども増えています。責任感や世間体から介護を休むことに抵抗を感じる方もいるようですが、家族のあり方が変わり、わずか一~二人で在宅介護が行われる時代です。長く続けるには、息抜きは絶対に必要です。
1.

AとBのどちらでも触れられている情報はどれか。

2.

高齢者のリハビリについて、AとBはそれぞれどのような見方をしているか。

3.

介護者が得られる社会的支援について、AとBはどのように述べているか。

A

   選挙権は一人一票。平等に与えられているはずだが、実際は人口の少ない地域の候補者が少ない票数で当選するのに対して、人口が多ければその倍以上取っても落選する。2008 年の選挙では人口の多い神奈川県(かながわけん)と少ない鳥取県(とっとりけん)では 4.868 倍もの格差があった。私の票も衆議院で 0.46 票、参議院て 0.23 票の価値しかない。このままでは私の意見はこの比率しか反映されない。早く格差を無くしてほしい。議員は地位が脅かされる選挙制度改革をしたくない。しかし最高裁判所で格差は憲法違反だという判決が出れば改革せざるを得ない。そこで、最高裁判所の裁判官の国民審査で格差を憲法違反ではないと考える裁判官を信任しない、つまり x をつけるという運動が生まれた。これを広めて世論を喚起し一票の格差を解消したいと思っている。

 

B

   国民は法の下に平等だから一票の格差は解消すべきものだろう。しかし、完全に平等になったら都会の人たちの意見を代表する議員ばかりになり、私たち人口が少ない地域に住んでいる者の意見は国政に反映されなくなってしまう。地方の疲弊が言われている。私の住む地域は子どもの学力テストで日本一と言われ持て(はや)されているが、成長した優秀な子ども達のほとんどが都会に行って帰ってこなない。沢山の税金や家計費を使って都会の繁栄のために子育てしているようなものだ。あげくの果てに国政でも隅に追いやられては、地方は益々活カを失ってしまう。選挙制度の改革は当然だが、格差解消だけでは真の平等は実現しない。地方の意見も吸い上げる新しい制度が必要だと思う。

1.

どうして選挙制度が変わると地位が脅かされるのか。

2.

両者の立場を表しているのはどれか。

3.

日本の現状を述べているのはどれか。