Đề thi luyện kỹ năng Đọc hiểu - JLPT N1

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読解
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統合理解

Hoàn thành
読解
問題1 次の文章を読んで、文章全体の内容を考えて、以下の中に入る最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   才能というのは誰でも同じようにあるわけではないし、勉強の才能がない人がそれ以外の才能を持っているという保証もない。それでも、様々な才能があり得るわけだし、自分の才能を探して、そこで頑張って心楽しくなれる人もきっと大勢いると思う。もちろん、何をやってもダメだということもあり得るわけだし、それは仕方がないことである。重要なことは、自分で自分のやり方を決定し、余り後悔しないことである。才能があってもなくなっても、自分なりの規範を見つけ、その中で自足することができれば、人は善く生きられると私は思う。

1.

筆者がここで最も言いたいことは何か。

   話しかけるタイミングの悪い人が増えた。彼らは呼吸が上手(うま)くつかめないのである。私は、これはネット社会の影響だろうと考えている。

   電子メールは便利である。メールのお(かげ)でビジネス関連の時間、特に伝達事項にかける時間が随分短縮(ずいぶんたんしゅく)された。こちらは、時間の余裕のある時にメールを書けばよい。相手も時間の余裕のあるときに読めばよい。自分の都合、相手の都合、双方(そうほう)に利益があるのである。

   これを繰り返しているぶんには、相手の都合を考えなくてもよいのである。自分の都合のいい時に「伝達」が済んでしまう。ということは、相手の様子を読むトレーニングを()まなくなる。相手の呼吸に合わせるという感覚がなくなっていくのである。

(竹内一郎「人は見た目が9割 」新潮社)

   ある小学校の運動会で、競技は順位をつけないようにしよう、みんなで手をつないで走るようにしようという試みがありました。足の遅い子や運動能力の低い子を人格的に否定するおそれがある。それがひいては差別やいじめにつながるおそれがある。というのがその理由のようです。でも、何でもいっしょのなかよしクラブが本当の平等なのでしょうか。

(太田典生「人生をうるおすいい話」 PHP研究所)

3.

それ」は何を指しているか。

   心理学の用語で「知覚の選択性」というものがある。私たちは、外界の情報をすべて知覚しているわけではなく、無意識のうちに自分に必要な情報だけを取り込み、処理しているということだ。これは例えば、騷々しいパーティー会場でも話し相手の声は聞き取れることと関係している。一方、会議の様子を録音したものを聞くと、周囲の雑音がすべて入っているため、かなり聞きづらい。

   それでは、自分に必要な情報は何かと言えば、それは知覚主体の知識.期待.欲求.注意等の要因によって異なる。それらの要因で無意識に情報が取捨選択されているのだ。

4.

「知覚の選択性」に関連するものはどれか。

問題2 次の(1)から(5)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

 以前、花見をしている時に「桜の花は本当にきれいな正五角形(注1)だね」と言ったら、風情のない人だと笑われたことがあった。確かに、桜の花びらには微妙な色や形、そして香りに加えて、散りゆく美しさがある。花を()でる和歌や俳句は数限りないが 、そのなかに「正五角形」という言葉が使われたことはおそらく一度もないであろう。科学者特有の美意識は、風流とはかなり異質なものなのだと悟った。

 科学において本質以外を切り捨てるためには、大胆な抽象化と理想化が必要である。桜の花びらのたくさんの特徴の中から、「正五角形」という形だけを取り出すと。これが抽象化である。実際に数学的な意味で完全な正五角形を示す花びら少ないだろうか、そこにはあまりこだわらない。これが理想化である。

 自然界で正五角形のような対称性を示すためには必ず規則的な法則があるはずである。花の場合、品種によって花弁(はなびら)(注2)の回転対称性が遺伝子で決定されていることは間違いないから、うまくこの遺伝子を突きとめられれば、花の形を決める普遍的な法則見つかるに違いない。このように、抽象化と理想化によって自然現象は単純に整理でき、普遍的な法則を見つける助けになる。

(酒井邦嘉『科学者という仕事 』による)

(注1) 正五角形:五つの辺の長さが等しい五角形

(注2)  花弁(はなびら):花びら

1.

筆者は、自分が笑われた原因は、どこにあると考えているか。

2.

ここでの理想化とは何か。

3.

筆者の考えによると、花の場合、抽象化と理想化によって何が期待されるか。

   アイデアを生む発想力というのは、遍在する膨大な記憶を徹底的に「検索」し、適したものを意識の表面に浮かび上がらせる力ではないかと思う。その力は①筋肉と同じで鍛え続け退化する。そして発想力を鍛え、維持するためには、他の誰よりも「長い時間集中して考え抜く」という、ミもフタもないやり方しかない。だがおそらく考えている間はアイデアは生まれてこない。脳が悲鳴を上げるまで考え抜いて、ふっとその課題から離れたときに、湖底から小さな泡が上がってくるように、アイデアの核が浮き上がってくる。

   つまりアイデアというものは常に直感的に浮かび上がる。しかし直感は、「長い間集中して考え抜くこと」、すなわち果てしない思考の延長上でしか②機能してくれない

1.

筋肉と同じと筆者が考える理由は何か。

2.

筆者はアイデアはどのようにして生まれてくると考えているか。

3.

機能してくれないとは、この場合どういうことか。

わが国の文章の書き手として、想像・想像するという言葉をもっともよく使ったのは、おそらく柳田国男であろう。民衆に伝えられる生活の慣習、用具などに残る手がかりをつうじて、なつかしい(注1)こ古そう層へとたどるみんぞく民俗学の、わが国での開拓者として、柳田にはこの言葉がきわめてたいせつなものであった。

柳田は、それと空想・空想するという言葉とを区別しようとした。その文章の執筆の時期や、あつかう対象、また語りかける相手のちがいにつれて、柳田の行なった空想・空想すると、想像・想像するの区別には、いかにもはっきりしている際と、そうでない場合がある。しかし後の場合も、空想・空想することをしだいに正確にしてゆけば、想像・想像するにいたるという、段階的なつながりにおいて――(注2)あい接し、境界がぼやけていることはあるにしても、その上辺と下辺では、ちがいがはっきりしている、という仕方で――使われている。

具体的な根拠のない、あるいはあってもあいまいなものにたって行なうこ古そう層への心の動きを、空想・空想するとし、よりはっきりした根拠にたつ、しっかりした心の働きを、想像・想像するとして、柳田は使いわけているのである。そこで時には、やや、、とか、あきらかに、、、、、とかいう限定辞をかぶせねばならぬのではあるが、空想・空想するには、人間の心の働きとして、マイナス・消極的評価のしるし、、、がついており、想像・想像するは、プラス・積極的評価のしるし、、、がついている。

(大江健三郎『新しい文学のために』による)

(注1)こ古そう層:ここでは、古い時代

(注2)あい接し:互いに接し

1.

柳田が使う「空想・空想する」と「想像・想像する」にはどのような関係があると筆者は考えているか。

2.

柳田が「空想・空想する」という言葉を使うのはどのようなときだと筆者は考えているか。

3.

柳田が「想像・想像する」という言葉を使うのはどのようなときだと筆者は考えているか。

問題3 次の文章を読んで、質問に答えなさい。答えは、1・2・3・4から最もよいものを一つえらびなさい。

   最近、思想を表現する方法について考えることが多くなった。たとえば、文章は思想を表現する方法のひとつだけれど、その文章にもいろいろな表現形式がある。哲学の勉強をはじめた頃の私は、さまざまな形式のなかで論文という形式だけが、思想表現の方法にふさわしいと思っていた。

   しかし、後に、この考え方を訂正しなければならなくなった。思想の表現として、論文が唯一の方法だということは絶対にない。私たちは、すぐれたエッセーや小説、 詩をとおして、しばしば思想を学びとる。とすれば、思想を表現する文章のかたちは、自在であってよいはずである。

   ところが、そう考えてもまだ問題はある。というのは、思想の表現影式は、文章というかたちをとるとは限らないのだから。絵でも彫刻でも、音楽でも、つまり実にさまざまなものを用いて、思想を表現するのは可能なはずである。そのなかには、かたちにならないものもある。

   たとえば私の村に暮らす人々のなかに、自然に対する深い思想をもっていない人など一人もいない。村の面積の96パーセントを森や川がしめるこの村で、自然に対する思想をたなかったら、人は暮らしていけない。ところが村人は、<自然について>などという論文を書くことも、文章を書くこともないのである。そればかりか、自分の自然哲学を、絵や音楽で表現しようとも考えない。

   そんなふうにみていくと、村人は自然に対してだけではなく、農についての深い思想や、村とは何かという思想をももっているのに、それらを何らかのかたちで表現することも、またないのである。

   とすると、村人たちは、どんな方法で自分たちの思想を表現しているのであろうか。私は、それは、<作法>をとおしてではないかという気がする。
(中略)
   考えてみれば、もともとは、作法は、思想と結びつきながら伝承されてきたものであった。たとえば昔は、食事の作法を厳しくしつけられた。食べ物を残すことはもちろんのこ、さわぎながら食事をすることも、けっしてしてはいけなかった。それは、食事は生命いただくものだ、という厳かな思想があったからである。茶碗(ちゃわん)の中の米だけをみても、人間はおそらく何万という生命をいただかなければならない。だから、そういう人間のあり方を考えながら、いま自分の身体のなかへと移ってくれる生命に感謝する。この思想が食事の作法をつくりだした。

   ところが、近代から現代の思想は、このような、日々の暮らしとともにあった思想を無視したのである。その結果、思想は、文章という表現形式をもち、文章を書く思想家のものになった。そして、いつの間にか人間の上に君臨し、現実を支配する手段になっていった。

1.

かたちにならないものとして筆者が挙げているのはどれか。

2.

この文章中で筆者は、自分の村に暮らす人々がどんな思想をもっていると述べているか。

3.

食事の作法は、次のどのような考え方と結びついているか。

4.

この文章中で筆者が述べていることはどれか。

    2007 年、あらゆる組織や臓器に変化する可能性を持つ人工多能性幹細胞、いわゆるiPS細胞の培養に日本人の山中伸弥(しんや)教授が成功しました。この画期的なニュースが世界中を駆け巡ったとき、多くの患者たちに希望の灯がともされたことでしょう。この技術が確立されれば目分の体から新しい臓器を作ることが可能になります。他人の臓器移値を侍っている間に亡くなる患者を救うことができるばかりでなく、移植後の驪器との不適合から引き起こされる様々な障害をー掃することもできます。現在の医学では治療不可能なALS(注1)(筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう))なども治療できるでしょう。 そして誰もが再生医療を受けられれば、人類は健康を維持でき、更に寿命を伸ばすことさえできるてしょう。まさに夢の医療なのてす。


   この研究はまだ緒に就いてさほど経っていません。熾烈な開発競争が世界中の研究で行われているとはいえ、実現にはまだまだ乗り越えなければならないことがたくさんあります。中でも一番の問題は安全性です。 iPS細胞は癌化しやすいという欠点を持っているのです。

   最新のニュースによると、日本の慶応大学のグループが猿を使った実験に世界で初めて成功したそうです。せき髄が傷ついて首から下全体が麻痺した猿に人間の皮膚を基に作り上げた。iPS細胞を移植して歩けるように回復させたのです。また、この実験では約3ヶ月の経過観察の間、iPS 細胞の癌化が起こらなかったそうです。この実験が注目されているのは人間と同じ霊長類である猿を使ったことと癌化が起きなかったことです。これで人間への応用に一歩近づいたと言えます。

   再生医療の面では希望となるiPS細胞ですが、倫理面での問題も(はら)んでいます。2010年、アメリカで 2 匹の父親マウスから子供を誕生させることに成功したそうです。どんな組職にも変化可能ですから、精子と卵子を生成することもできるわけです。この技術を応用すれば女同士あるいは男同士から子供を作ることも理論的には可能になります。抆術的面からすぐに①どうこうというわけではありませんが、将来危惧されることになるでしょう。

   また、特許の問題もあります。もし誰かに基本技術の特許が与えられたら、この分野での研究は止まってしまう恐れがあります。ノーベル化学賞受賞者の編み出したクロスカップリング(注2)という抆術は特許を申請しなかったからこそ、その後多くの研究者があとに続き、人類のために多くの新薬を作り出すことができたと言われています。iPS細胞基礎技術もそうあるべきだと考えます。研究を進ませ人類のために役立てて欲しいと思うからです。

( 注1)  ALS(筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)): 全身の筋肉が衰えていく病気

( 注2) クロスカップリング: 異なる二つのものを結合させる化学反応

1.

どうこうとは何を指すか。

2.

最新のiPS細胞技術について述べているのはどれか。

3.

iPS細胞研究に障害があるとすればそれは何か。

4.

iPS細胞研究に対する著者の考えはどれか。 

問題4 次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

1.

A と B のどちらの文章にも触れられている内容はどれか。

2.

A の筆者と B の筆者は、どんな人は「要注意」だと言っているか。

3.

A と B の二つの文章を以下のようにまとめる場合、①と②に入るものの組み合わせとして適切なのはどれか。

「A の筆者は、ひとりになることは( ① )に必要だと考え、B の筆者は、ひとりになることは( ② )に必要だと考えている。」