Đề thi luyện kỹ năng Đọc hiểu - JLPT N1

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186


Hoàn thành
読解
問題1 次の文章を読んで、文章全体の内容を考えて、以下の中に入る最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   ある山の中の古びた宿場町(しゅくばまち)、ここは江戸時代、交通の要所で多くの旅人が行き()った所である。ここでは電線をはじめ、今を思わせるものは一切私たちの目に入ってこない。本当に狭く、あっという間に歩ききってしまうほどの場所だが、ここの人たちの「古い街並みを保存しよう」という強い気持ちがひしひしと感じられる。生活の便利さを求めてしまったら、できないことだ。歴史的に重要な場所を無計画な町づくりで台無しにして(注)しまっている所があまりにも多いと感じるのは、私だけだろうか。

(注)台無しにする:めちゃくちゃにすること

1.

本文の内容に合っているのはどれか。

   仏教の教えの中に、自分自身の根拠(こんきょ)の発見というものがある。しかし、自分の存在を現世(げんせ)(注1)的なものの中から見つけるのは非常に難しい。現世に生きながら、現世に自分自身の根拠がないことについては誰もが無意識のうちに不安を覚えるであろう。それは(とら)えようのないものであり、非常に愁傷(しゅうしょう)(注2)で、漠然(ばくぜん)としたものである。それらを科学的に解明するにも無理があるだろう。現世における自我(じが)の存在は、自身の意志とは全く無関係なところから始まっているのだ。

   現実に見えないことを求めていくことは勇気のいる決心であるし、到達(とうたつ)しがたい境地(きょうち)(注3)である。仏教にある「無我(むが)」というのはその境地を指す言葉であろう。しかし、結果的に自分の根拠が現世にないという不安定な自我を支えるために信仰(しんこう)心が厚くなることも事実である。

(注1)   現世:現在の世の中

(注2)   憖傷的:悲しさや寂しさを持った

(注3)   境地:最終的な到達目標である心の状態

2.

非常に難しい」とあるが、どうしてか。

   先月、 中国で(めずら)しいチョウが採集(さいしゅう)された、 という新聞記事が出た。チョウは昆虫(こんちゅう)の中では、 人に好かれるものの代表で、 「チョウよ花よ、 とかわいがる」 という言い方もあるくらいだから、(ちん)チョウの発見が新聞紙上をにざわせても不思議なわけではない。

   これがゴキブリであれば。 ①こうはいかない。 人に嫌われる代表のような昆虫であるゴキブリはチョウよりもはるかに種類が少なく、したがって(めずら)しいゴキブリが発見されればやはり事件となるであろうが、 「 (ちん)ゴキプリ発見」 という記事では、 よほどうまく書かれていないと採用されないに違いない。

( 養老孟司「 ヒトの見方』 筑摩書房による)

3.

①「こうはいかない」とあるが、 どういうことか。

   女性の誇りはいかに質の高い愛をもらったか、いかにたくさん愛をもらったか、ということです女性はいつの時代も愛されることに命をかけています。世界中の女性がそう思って生きているのです。ほとんど例外はありません。キレイになりたい、という女心は、愛されたいがゆえの願望です。キレイになりたくない、などと思う女性は、百人に一人いるかいないかという確率です。かわいい自分になってたくさんの男性を引き寄せ、その中から質の高い男性を選ぼうとするのが女性というものです。それが女性の戦略です。

(岩月謙司「女は男のどこを見ているか」筑摩書房)

4.

それ」は何を指しているか。

   議論は漫画やテレビと違い、接してさえいれば自然にその面白さに浸れるというモノではない。読むほう、聞くほうも積極的に関わらなければ面白くない。逆に言うと、一定のテクニックを持つ者しかァクセスできないが、それがわかれば一挙に広大な世界が開ける。この入り口に立てない人はこの豊穣な土地から閉め出されているに等しい。

5.

この文章で筆者の言いたいことは何か。

   人間は自然を人工化する。 いかにも自然そのもののような錯覚(さっかく)を与えながら、 人間は自然を(こう)(みょう)に人工の風景に変えてゆく。 それが、 人間が豊かに暮らすための新しい自然環境なのだとすれば、 それをとどめることはできまい。 そうしていつの間にか、 山も(へい)()も人間の目的に従った人工の風景に変わってゆく。

   しかし、 絶えず人工化しようとする人の手がかからなくなると、 山も野も、 すぐにもとの姿に返ってゆこうとする。まだまだ人間と自然の勝負は決まったわけではない。 自然の(   ) というものが、 今でもひそかに働いているのである。

( 多田富雄「 独酌余測朝日新聞社による)

6.

(   )に入る最も適当な言葉はどれか。

   完全栄養食品とは文字通り解釈すれば、「これさえ食べれば他には何も食べなくても生活できる食物」ということになる。そんな便利な食物があるのだろうかーーー。

   いわゆる自然食品愛好家の中には「玄米(げんまい)(注1)は完全栄養食品」という人をときどき見かけるが、塩も水もとらないで、何ヶ月も過ごせるのだろうか。やはり無理があると思う。真剣に考えてみてほしい。

   実をいうと、たった一つだけあるのだ。ただし年齢制限があり、大人では無理である。こういえば分かると思うが、健康なお母さんのおっぱいからでる「母乳(ぼにゅう)」、これは正真正(しょうしんせい)(めい)、完全栄養食品だ。大人のように、やれ主食は何がいいとか、副食(ふくしょく)は何がいいだとか考えなくても、生命を維持し、成長する上で必要なものは全部含まれているのである。まさに「驚異(きょうい)の食品」と呼ぶにふさわしいものである。

   牛乳もまた完全栄養食品だ。しかし、人間にとってではない。あくまでも牛の赤ちゃんにとっての完全栄養食品だ。しかも、ビンや紙パックに入ったものではなく、母牛の乳房(ちぶさ)から直接飲んだ場合に完全栄養食品としての価値があるのである。

                                                                         (幕内秀夫『粗食のすすめ 』新潮社)

(注1)   玄米(げんまい)精米(せいまい)(米をきれいにする)前の米

(注2)   正真正銘(しょうしんしょうめい):本物

 

7.

文章の内容と最も合っているものはとれか。

   ある医者から聞いた話だが、薬物依存(やくぶついぞん)の患者に、本物そっくりの薬を渡すと症状が落ち着くことがあるという。その後、「薬がなくても大丈夫」と説明すると、薬から離いっかんれるきっかけになるというのだ。これは治療の一環(いっかん)として行われるそうである。

   こんなことができるのは、患者が、にせの薬を「本物の薬」と思いこむことで効果が現れる「プラセボ効果」が存在するからだ。

   昔から、珍しい植物とか、動物の骨とかが難病に効くという話がよくある。成分からすると効くはずのないものが長く薬として使われた背景には、プラセボ効果があるとみられる。

8.

次のうち、プラセボ効果に相当するのはどれか

   これまでは、企業の社会貢献活動といえば、本業に関連のある教育機関への、または、福祉施設や慈善事業への企業が一括して行なう寄付という形態をとるものが多くみられた。シンポジウムとか、いわゆる冠イベントの開催など、広告・宣伝活動の一環という位置づけのものも少なくなかった。これに対して、近年の動きには、いくつかの新しい方向性が見られる。結論から先にいえば、「社員の自主的参加」、「地域住民との共同作業」、「営業や広報・宣伝からの独立」を重視する方向性が出てきたということである。

9.

企業の社会貢献活動はどのように変わってきたか。

情報技術(IT)の進歩に伴い、ITを使いこなせる人とそうでない人の間で得られる情報量の違い、いわゆる「情報格差」が生まれている。この情報格差は、IT化とは別の側面からも生じ得る。そのつが、外国人などが言語の問題で情報にアクセスできないことだ。その対応策とし、多は言語によろ情報提供が進められている。例えば東日本大震災の際にもインターネットやラジオを通してさまざまな多言語情報が発信されたが、現在の課題は、その「伝達方法」である。いくら情報を発信しても相手に届かなければ意味がない。情報が屈くには、発信メディアが日頃から外国人民に広く認知され信糈されるものになっていなければならない。

10.

この文章によると、多言語による情報提供の現在の昆題は何か。

   価値の多様性(たようせい)ということが、最近よく言われるようになった。生き方が多様になっただけ、価値観の方も多様になってきた、というのであるが、()たしてそうだろうか。

   教育の「実状(じつじょう)(注1)」を考えてみると、日本人すべてが、「勉強のできる子はえらい」という、一様(いちよう)な価値観に()まってしまっている、と言えないだろうか。親は子どもの点数のみ序列(じょれつ)のみを評価の対象にする。少しでもよい点をとってきて、すこしでも上位に(くらい)(注2)する子は「よい子」なのである。教師も親ほどではないにしても、それに近いであろう。

                                                                     (河合隼雄『子どもと学校 』岩波書店)

(注1) 実状(じつじょう):実際の状況

(注2) (くらい)する:その位置にいる

11.

筆者の考えとして正しいものはどれか。

   集団にも個人とおなじように、それぞれ性格があるのはたしかだ。しかし、例外というものがある。それが千に一つの例外であるとか、百に一つ、十に一つといったふうに、程度に差があって、取り扱いもウエイト(注)をかえねばならない。いずれにしても、一つの例外を拡大して、それを集団の性格であると規定すれば、おとし穴に落ちたことになる。

(注)ウエイト:比重

12.

筆者が最も言いたいことは何か。

問題2 次の(1)から(5)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

  60年ほど前、児童心理学者シャーロット・ビューラーは、子どもが自分にできるようになった力を用いることに喜びを見出し、その力によって様々なことを発見し、育つことの重要性を指摘しました。彼女はこれを「機能の喜び」と名づけていますが、自分の力(機能)を使うこと自体が子どもにとって喜びであり、それによって学び、育つという、人間の発達の本質をいい(注)得て妙だと思います。

   代は、この「機能の喜び」がとかく無視されているのではないでしょうか。親は「良育」にせっかちなあまり、子どもが熱中していることに我慢できないようです。遠回りにも時間の無駄にもみえるのでしょう。そのため、自分の考える①「よかれ」の計画路線に子どもを歩ませようとします。(中略)

 「機能の喜び」を味わう機会の減少は、自分が学ぶ力をもっていることについて知る体験を子どもから奪うことでもあります。同時に、子どもの自己効力感を育てる機会を奪っています。日本の子どもたちは、ある程度の能力をもっていても自信をもてない傾向が強いのですが。自力達成の機会の少なさも一因でしょ、親の過剰な教育熱がかえって、子どもが自ら育つことを疎外してしまっているのです。その意味でも、子どもの発達権」の保障は急務です。

(注)いい得て妙:実にうまく言い表している

1.

①「よかれ」の計画路線とはどういう意味か。

2.

筆者は、現代の親にはどのような特徴があると述べているか。

3.

ここで言う、②子どもの「発達権」の保障とはどういうことか。

   夜道を照らす街灯や、庭などに置いてある電灯に明かりが灯ると、どこからともなくたくさんの()が集まってきます。都市部ではあまり見られませんが、台所や部屋の網戸などに張りついていることもあります。

   とくにえさがあるわけでもないのに、明かりに寄ってきてはくるくる舞い飛ぶ蛾。どうして蛾たちは①このような不思議な行動をするのでしょう。これには二つの説があります。

   夜に行動する夜行性の蛾たちには、コウモリというこわい敵がいます。自分たちを捕食するコウモリから逃れるためには、コウモリが嫌う明るい場所にいるのがもっとも安全だと考え、夜になると明かりに寄ってくるという説がひとつ。

   もうひとつは、それよりもちょっと有力です。

   夜、蛾たちは月や星の光を目安に飛んでいます。どちらかの光をつねに一方の側に見ていれば、まっすぐに飛べるからです。ところが、街灯などの明かりは月や星とちがってすぐ近くにあります。そのため、いったん明かりのそばに寄ってしまうと、( ② )。光を片側に見ながら飛ぼうとすれば、くるくると光源の周りを舞うことになってしまうというわけです。

1.

このような不思議な行動とあるが、それはどのような行動か。

2.

(  ② ) に入れるのに適当な誄はどれか。

3.

蛾が街灯や電灯に集まってくる理由として、筆者が述べている二つの説とはどれか。

   ある時、何かの企画(きかく)をしていた私が、 「 こんな ①いいかげんなことで大丈夫かなあ」 とふともらしたら、 そばで聞いていた友人が、 「 いいかげんじゃなくて、 よいかげんなのよ、 いいのよ、 それで… 」 と言ってくれた。その言葉ですっと気が楽になったのを覚えている。

   ちなみに手元(てもと)にある辞書( 広辞苑(こうじえん)) を引いてみた。 「 いいかげん( 好い加減) 」 は、 ( 1)よい程あい。 適当。 ( 2)徹底(てってい)しないこと。 深く考えずに無責任なこと。 ( 3)( 副詞的に) 相当。 かなり。とある。 つまり、 「 いいかげん」 は( 2) の意味で使われた場合マイナスイメージになり、 ( 1) の意味で使われた場合マイナスイメージは消える。

   世の中の多くのことは、 いいかげんなことをせず正確と緻密(ちみつ)をモットーにしてがんばるからこそ成功するわけだが、‚②生活のすみずみまでこの精神が浸透(しんとう)したら息苦しいに違いない。大切な部分はきちんと押さえるとしても、 日々の暮らしの中ではちょっとしたずれや例外があることを十分認め、 無責任でない程度に「 ()加減(かげん)」 にものごとをできたら、 もっと大らかな気持ちになれるだろ。そして、時にはこのように「いいかげん」 なのではなくて「 好い加減」 なのだ、 と自分にやさしくすることも③必要ではないかと思った。言葉の使い方をちょっと変えるだけで、 ふわりと気が楽になるということもあるのだ。

1.

この発言で、 ①「 いいかげん」 とはどんな意味か。

2.

②「生活のすみずみまでこの精神が浸透(しんとう)したら息苦しいに違いない」とはどういうことか。

3.

③「必要ではないかと思った」と筆者が考える理由は何か。

   現在、活動を停止することは必ずしも休息を意味しない。活動を停止するためには、活動を停止するための活動が必要であり、それはしばしば、そのまま活動し続けるよりも、大いなる活動となる可能性があるからである。今日では、いったん停止された活動が、そのままの状態で持続されることは、ほぼ①考えられないのだ。停止を持続するために、絶えざる働きかけが必要であり、しかもその働きに要するエネルギーは、停止期間が長びけば長びくほど増大する。従って多くの人々は、活動を持続している期間より、それを停止している期間に、より大いなる疲労を引き受けることになる。

   言うまでもなく、②かつてはそうではなかった。活動は活動として独自に保証され、その停止は停止として、これまた独自に保証されていたのである。活動がひとつの状態であれば、その停止もまたひとつの状態であるのはともかく、その停止は「非状態」としてしか確かめられなくなりつつあるのである。

   現在多くの人々が、他から強制された活動停止の時間―いわゆる「待ち時間」を、独自に体験することが出来なくなりつつあることにお気付きであろうか。

1.

筆者は、どんなことが①考えられないと言っているのか。

2.

かつてはそうではなかったとあるが、以前はどうだったのか。

3.

本文の内容と合うものはどれか。

   アイデアを生む発想力というのは、遍在する膨大な記憶を徹底的に「検索」し、適したものを意識の表面に浮かび上がらせる力ではないかと思う。その力は①筋肉と同じで鍛え続け退化する。そして発想力を鍛え、維持するためには、他の誰よりも「長い時間集中して考え抜く」という、ミもフタもないやり方しかない。だがおそらく考えている間はアイデアは生まれてこない。脳が悲鳴を上げるまで考え抜いて、ふっとその課題から離れたときに、湖底から小さな泡が上がってくるように、アイデアの核が浮き上がってくる。

   つまりアイデアというものは常に直感的に浮かび上がる。しかし直感は、「長い間集中して考え抜くこと」、すなわち果てしない思考の延長上でしか②機能してくれない

1.

筋肉と同じと筆者が考える理由は何か。

2.

筆者はアイデアはどのようにして生まれてくると考えているか。

3.

機能してくれないとは、この場合どういうことか。

   行列にもいろいろある。そして、行列は、私たちの生活に必要なものでもあり、重宝なものでもある。電車の切符を買うとき、スーパーのレジで、銀行のカードで金の出し入れをする自動の機械、あれは何と言うのだろうか、あの機械を使うとき、タクシー乗場やバスの停留所で、私たちは行列するが、あれは私たちの社会生活のルールであり、当然である。

   けれども、回転ずしの空席待ちの行列などには、他ではいけないの、と言いたくなる。食べ物屋には、よく行列ができる。うまい店だからであろう。だが、そういう行列を見ると私は、他にもうまい店は、たくさんあるのに、と思い、①ズレを感じる。そう言えば、以前、青山五丁目の小さなパン屋に、何日間ぐらいだっただろうか、パンを買う人の長い行列ができたことがあった。パンが焼き上がる時刻が近づくと、数十メートルの行列ができる。親に、学校の帰りに買って来い、と言われたのであろう、ランドセルを背負った子供も並んでいた。

   ところが、その行列は、間もなく消滅した( ② )。行列のなくなってから、私ためしにその店のパンを買って食ってみたが、うまいパンであった。だが、他の店のパンもうまい。行列してまで入れなければならないほどのものとは思われなかったあのような、瞬間的流行のような行列もある。

1.

ズレを感じるとは筆者のどのような気持ちを表しているのか。

2.

( ② )に入る文はどれか。

3.

筆者は文中で行列を 2 種類に分けている。その分け方として正しいものはどれか。

   仮にあなたが知りあいから、エチオピアで飢餓に苦しむ難民救済のための募金に協力してくれと頼まれたとしよう。はじめから断ってしまえば、多少のうしろめたさは残るもののそれで一応、①事態は収まる。しかし、もし協力を表明したとすると、あなたは、募金箱に百円入れても、千円入れても、一万円入れても「なぜもっと出せないのか」と言われるかもしれないという、「つらい」立場に立たされることになる。

  (中略)先進国が今ある繁栄を獲得した要因となった種々の経済活動は、地球という、人類全体が共有すべき有限の資源を消費した結果であるという視点もありうる。そう考えるなら、南北の経済格差や南の国の飢餓の宿題は、その共有資源を消費した代償として得られた経済活動の果実の偏在に起因するものであり、単に、ある特定の地域の問題ではありえないという議論が妥当性を持つことになる、資源の消費に関しては最大の「貢献国」のひとつである日本の国民としては、自分だけ高い生活水準をエンジョイしつつ、世界に蔓延する飢餓は自分の問題ではないとは言いきれない。

   ②ボランティアが経験するこのような「つらさ」は、結局、自分ですすんでとった行動の結果として分自身が苦しい立場に立たされるという、一種のパラドックスに根ざすものである。

                             (金子郁容「ボランティアもうひとつの情懶社会」岩波書店による)

1.

事態は収まるとは、具体的にはどういうことか。

2.

筆者の考えによると、南北の経済格差や飢餓の問題を引き起こした要因は何か。

3.

ボランティア経験するこのような「つらさ」とは、どのようなものか。

   新石器時代に家が出現した。家の出現は、人々の日々の暮らしに安らぎといこいをもたらす。冬は暖かく、夏は(すず)しく、()が落ちて暗くなっても炉には火が燃えている。家のなかには風も雨も雪も入ってこないし、腹のへったクマやトラやライオンに襲われる心配もない。家族のもさぞ強まったことだろう。でも、家の効果はそうした日常的なことや実際的なことだけではなかった。人の心や精神にとって、きわめて重要な役割を果した。(中略)自分が修学旅行や夏休みの休暇(きゅうか)で長期に家を空けた時のことを思い出してください。

   “懐しい "(注)と思う。どうしてそう思うのか。もし自分がいない間に作り替えられていたら、ガッカリしこそすれ懐しさはない。逆にわけのわからない怒りがこみ上げるかもしれない。家が変わっていなかったからこそ懐しいという気持ちが()いてきたのだった。懐しいという心の働きは、喜怒哀楽(きどあいらく)の感情とはちがう不思議な感情で、人間にしかない犬は占い犬小屋を振り返ってシミジミするようなことはしない。人間が、昔のものが変わらずにあるシーンに出会った時に、この感情が湧いてくる。

   その時、自分の心のなかでは何が起きているんだろう。おそらくこうなのだ。久しぶりに見た家が昔と同じだったことで、今の自分が昔の自分と同じことを、昔の自分が今の自分まで続いていることを、確認したのではあるまいか。自分はずっと自分であ。

   人間は自分というものの時間的な連続性を、建物や集落の光景で無意護のうちに確認しいているのではないか。

   新石器時代の安定した家の出現は、人間の自己確認作業を強化する働きをした。このことが家というものの一番大事な役割なのかもしれない。

(藤森照信 『人類と建築の歴史』筑摩書房による)

(注)懐しい:一般的な表記は「懐かしい」

1.

家の出現が人々にもたらした変化として、本文の内容に合うものはどれか 。 

2.

自分というものの時間的な連続性とは、どのような意味か。

3.

筆者の考えによると、家が果たした最も重要な役割は何か。

   科学や技術によって世の中が進歩すればするほど、人間も進歩し、人間は善くなり、悪人はいなくなるなどと考えることは、どうも幻想にすぎないのではないだろうか。①そんなことをもし学校で子供たちに教えているとしたら、それは()(まん)(注)にすぎない。文字どおり、子供だましである。

   愛すべき人間は多い。それは事実だ。しかし信用できない人間、かくれてだます人間、人を傷つけて知らぬふりをしている人間の数も、それに劣らず多い。それも事実だ。そして科学技術が進めば進むほど、②そのような人間も多くなってゆくだろうことを、学校教育は強力に子供たちに教えるべきである。「通常、人間は機会さえあれば、悪いことをするものである」とすでに古くアリストテレスは言っている。

   日本のような他者志向型の文化のなかでは、人びとの頭のなかには「人間はみな善人で信ずべき存在である。他人を疑ってはいけない」という甘い考え、あるいは根拠のない幻想がしみついている。だから学校でもそのように子供に教える。まるで子供に目をつぶらせて、狭い平均台のうえを渡らせるようなものだ。オモテばかりを教えて、ウラを教えない教育は片手落ちというべきである。疑うべきものはきちんと疑うように教えるぺきなのだ。

(注)()(まん):だますこと

1.

そんなこととあるがどんなことを指しているか。

2.

そのような人間とは、どのようなものか。

3.

筆者は子供にどのようなことを教えることが必要だと言っているか。

問題3 次の文章を読んで、質問に答えなさい。答えは、1・2・3・4から最もよいものを一つえらびなさい。

   学生が農村調査などに出かけると、農家の人たちは、学生さんがきた、というのでしばしば丁重に扱ってくれたりする。しかし、そういうときが、じつはいちばん①危険なのだ。丁重に扱われることによって、学生はじぶんたちのほうがえらいのだ、という錯覚におちいる。そしてその錯覚のゆえに、教えを乞う、という謙虚なこころをいつのまにか失ってしまう。学生だって、大学教授だって、ほんとうはちっともえらくなんぞありはしない。知らないことだらけなのである。知らないからこそ、ひとに会って教えてもらおうとしているのである。肩書きがどうあろうと、教えを乞うているかぎりは学ぶ立場にいる。その学ぼうとする謙虚なこころが、ひとに話をきくときの基本的心がまえでなげればならぬ。相手が農民であろうと、タバコ屋のおばあさんであろうと、取材する相手は、大げさにいえばわれわれにとっての教師なのだ。ひとにものをきくときには、いささかなりとも尊大な気持をもってはいけない。尊大な取材をする人は、けっして真実の情報を手にいれることもできないだろうし、そういう人にはおよそ知的な進歩も期待できない。

   このことはジャーナリストにとってもあてはまる。新聞社の名刺を出せば、いわゆるコワもて、というやつで、どこにでもかなり自由に出入りできる。そのことから、ジャーナリストは不当な自負心をもち、尊大になりがちだ。しかし、それはジャーナリにとっての最大の②ワナなのである。そのワナにひっかかったがさいご、そういう人物は③けつして大成できないと知るべきであろう。

   じっさい、わたしはこれまでの体験のなかで、大記者、名記者といわれる人たちにたくさん会ったが、そういう人はひとりの例外もなく、柔和で、謙虚な人びとであった。肩ひじ張って眼光するどい――そういうタイプの人はテレビの記者ものには登場するがそれはけっしてじつさいの名記者のイメージではないのである。ほんとうの名記者は、しずかで、たのしい人物たちなのである。その人がらが、すばらしい取材能力を決定している、といってもさしつかえないだろう。かれらはひとに話をきくにあたっての基本的な作法、つまり、謙虚さを人がらのなかにそなえているのである。

   ひとに教えを乞うという態度――それは当然、感謝の念とつながってゆく。そして、なんらかのかたちで感謝のこころをあらわす、ということが、しぜんとものをきく作法のなかに反映されてゆくのである。(中略)話をきいたあとで、たとえハガキ一本であろうと、こころがこもっていればそれでもじゅうぶんだ。教えをうけたことにたいする感謝――そのこころを素直にもてるかもてないか、いささか道徳的な話になってしまったが、そのこころ構えがものをきく作法の基本条件だ、とわたしはかんがえている。

(加藤秀俊 『取材学 探求の技法』中公新書による)

1.

筆者が①危険だと感じるのはどのようなことか。

2.

ワナとはどういう意味か。

3.

けっして大成できないのはなぜか。

4.

筆者が考える大記者、名記者とはどんな人物か。

   純粋な自分に強い(あこが)れを覚える現代の若者たちは、かえって自分を見失い、自己肯定感を損なうという事態におちいっている。そのため、人間関係に対する依存度がかつてよりも格段に高まっている。しかも、自分の本質を生まれもった固有のものと感じているため、付きあう相手もそれと合致した人でなければならないと考えるようになっている。こうして、互いの関係も狭い範囲で固定化される傾向にある。ところが、特定の関係だけに過剰に期待をかけすぎると、それは逆に息苦しいものともなる。

   さらに、自分の純粋さを脱社会的に求めるメンタリティは、そのまなざし(注1を自分の内へと向ける傾向が強いため、他人と共有できる部分がどんどん減っていき、欲求の対象や価値観もおのずと多様化してくる。ある似かよった傾向を示す若者たちの一群をさして、かつては「○○族」のような(くく)り方(注2)をすることが可能だったが、昨今ではそこまでの強い同質性が見られなくなり、「○○系」といった緩やかな(くく)り方しかできなくなっている。その結果、狭く固定化された人間関係の内部においてすら、ものごとの判断をめぐって相手と①衝突する可能性が高くなっている

   多くの人びとの関心が似かよっており、ほぼ同じ方向を見ていた時代なら、たとえ各人が自由にふるまったとしても、そこには重なり合う部分が少なくなかった。しかし、それぞれが内閉的に自分らしさを追求するようになると、互いの価値観や欲求の内実も多様化する。(中略)

   このように、純粋な自分に対する(あこが)れはかつて以上に高まっているのに、それをサポートするための人間関係を維持する条件のほうはかつて以上に厳しくなっている。互いの理解可能性を素朴(そぼく)に信じて、それを前提に人間関係を築いていくことはもはやできない。「分かり合えない感」と若者たちが表現するように、むしろ理解不可能性を前提とした人間関係を築いていく技術の必要性が高まっている。彼らは、じゅうぶんには分かりあえないかもしれないことを、じゅうぶんに分かりあっている。「優しい関係」とは、このようなアイロニカルな(注3状況を乗り切るために、互いの対立の回避を最優先の課題として、彼らが身につけた②人間関係のテクニックである。(中略)

   大人たちの目には、現在の若者たちの人間関係が、コミュニケーション能力の不足から希薄化(注4しているように映るかもしれない。しかし、実態はむしろ逆であって、かつてより葛藤(かっとう)(注5)火種(ひだね)が多く含まれるようになった人間関係をスムーズに営んでいくために、高度なコミュニケーション能力を駆使して絶妙な(注6)距離感覚をそこに作り出そうとしている。

(土井隆義 『友だち地獄-「空気を読む」世代のサバイバル』筑摩書房による)

(注1)まなざし:視線

(住2)(くく)り方:まとめ方

(注3)アイロニカルな:皮肉な

(注4)希薄化:薄くなること

(注5)葛藤(かっとう)火種(ひだね):ここでは、人と人との対立の原因

(注6)絶妙な:とても上手で、すぐれていること

1.

現代の若者の特徴として、筆者があげているものはどれか。

2.

衝突する可能性が高くなっているのはなぜか。

3.

筆者は、現代に必要な②人間関係のテクニックはどのようなものだと述べているか。

4.

筆者の述べていることと合っているものはどれか。

   眼が意味ある形を見ようとするあまり、無意味な形にまで意味を与える例をこれまで見てきた。

   ところが、眼はまったく存在しないものを「見る」力があるのだ。といっても超自然な能力のことではなく、だれの眼にも備わっている力なのである。

    ①図を見てみよう。二つの図とも、中央にははっきりとした輪郭をもつ三角形が見えるはずだ。ところが、目を近づけて見てみると三角形の輪郭などまったく描かれていないことがわかる。客観的に存在しない輪郭を、(1)眼が主観的に見てしまっているのである。そこで、このようにして見える輪郭を、心理学では、「(2)主観的輪郭」と呼ぶ。

   再び①図を見てみよう。

   上図では、主観的輪郭が描く三角形が背景の白よりもいっそう白く見え、下図ではいっそう黒く見える。実際に描かれている図形よりも、主観的輪郭が描く図形方が、くっきり見えるのである。そして、後者は前者の上にかぶさっているようにも見える。

   主観的輪郭が描く図形は、三角形など直線的なものばかりでなく、②図のように曲線が形づくる図形である場合もある。このようなときにも、①図に見た主観的輪郭の特徴は共通である。

   なぜ客観的には存在しない主観的輪郭が見えるのか。イタリアの心理学者カニッツァーによれば、その理由はおおむね次のように説明される。

   眼は、いつも意味あるより単純な形を求めている。もし眼前に複雑で意味を見つけにくいものが見えているとき、眼は不安定になる。だが、それがある形によって隠されているために無意味になっているのであれば、その隠しているものの形を見定めることにより、眼は安定するのである。その形が主観的輪郭が描く形なのである。

   この説明は、主観的輪郭線の特徴をもよく説明してくれる。主観的輪郭が描く図形が他を圧してくっきりと見えるのは、主観を補強して、この描かれていない形を確かなものとして見ようとするためである。背景となる図形にかぶさって見えるのは、(3)そのことが成立条件なのだから当然のことである。

   存在しないものを見る。だから、この主観的輪郭は錯視のひとつとされている。しかし、現実空間でも、実際にはないものを見てしまうということは、あり得ることである。やはり、主観的輪郭は、眼の力のひとつの現われではないのだろうか。

1.

(1)眼が主観的に見るとあるが、ここではどういうことか。

2.

(2)主観的輪郭の特徴として文中にないのはどれか。

3.

(3)そのこととは何か。

4.

この文章が、述べようとしていることは次のどれか。

 日本人には①テクニックという言葉に抵抗を感じる人が多いらしい。

「小手先のテクニックではなく、心が大事だ」

「表面的なテクニックではなく、ほんものの内容を身につけるべきだ」

   などと言われる。 テクニックという言葉は常に否定的に扱われる。テクニックは本質と関わりのない小手先の表面的な技術とれる。

   しかし、言うまでもないことだが、テクニックがあるから、物事を実践できる。理念だけ、理論だけでは何もできない。理念を実践するためには、それなりのテクニックが必要だ。いくら理想を高くてもテクニックがなければ、物事を実行できない。テクニックがあってはじめて、理念を現実のものにできる。

   私は、人生のほとんどがテクニックだと考えている。恋愛もテクニック、勉強もテクニック、人付き合いもテクニックだ。

   モーツァルトは②天才だったと言われる。その通りだと思う。 だが、摩訶(まか)不思議な能力がモーツァルトに備わって、音楽が次々と自動的に流れたわけではないだろう。モーツァルトは幼いころから父親に音楽の英才教育を受けた。そうしてさまざまなテクニックを身につけた。天才というのは、たくさんのテクニックを知り、それを適切に用いる能力を持った人間、ということにほかならない。

   人付き合いも、テクニックが必要だ。人に好かれるのも、実はテクニックにほかならない。人付き合いの上手な人は、意識的にテクニックを習得する必要がある。テクニックと割り切ることによって、練習ができる。テクニック自体を練り上げ、上達することができる。そのための修練を積むことができる。コミュニケーション術も、テクニックと考えて習得に努めてほしい。③この心構えがあってこそ、自分のものとして使いこなすことができるようになるはずだ。

   ただし、もちろん、人付き合いのテクニックというのは、人と人が理解し合えるようになるための道具でしかない。テクニックだけを身につけて、本当に理解し合うことを求めなければ、そのテクニックは意味がない。相手を本当に尊敬してもいないのに、テクニックだけで尊敬したふりをしても見破られる。すべてテクニックだということは、テクニックさえあれば心の交流は不要という意味ではない。自分の気持ちをきちんとわかってもらい、心の交流をなしとげる目的のために、テクニックがすべてを決する、という意味にほかならない。それについては誤解しないでいただきたい。

1.

日本人は①テクニックとはどんなものだと感じていると、筆者は言っているか。

2.

筆者は、 ②天才とは、どんな人だと述べているか。

3.

この心構えとは何か。

4.

この文章で筆者が言いたいことは何か。

   さて①現代を生きる人間が立ち向かうべきは、いったいどんな「自然」なのだろう。人間を生み、育てた原風景は間違いなくあの懐かしい生物的自然だ。この自然に人間は何百万年も生きてきた。けれどもその生物的自然は、残念ながらこの地球にはもう存在しない。その再生も不可能だ(ただし人間という生物がこの地上からいなくなれば、まもなく(ほう)(じょう)な生物的自然は再生してくるだろうが)。とすれば②人間的自然しかない。好むと好まざるとにかかわらず、人間は自分自身が創り上げた自然の中でしか生きていけない。けれどもそれは、人を現実から逃避させる情報的自然でも、限りある化石燃料に依存した工業的自然でもない。僕たちの相手は、結局農業的自然しかなぃと覚悟すべきだ。

   人間は自然(環境)の刺激により育つ。与えられる刺激は多様な程良い。何しろ人間のカラダには、何十億年という時間をかけて培われた莫大な潜在能力があるのだから。それを引き出すには、それだけたくさんの刺激が必要なはずだ。

   僕は人間が育つには、周りに色々な人間がいて、色々な事物が渦巻いていることが大切だと思っている。特定の人しかいず、特定の物しかなく、特定の事しか起きない世界は、③人間にとって貧しい

   でも今のこの国ではどこに行っても、④町や村はある特定の機能を押し付けられている。例えば僕の住む東京都下は、都心で働く人間のねぐらを提供するよう押し付けられている。

   農村部でも同じだ。そこでは大都市向けの農作物を作ることがまず要求される。しかもカボチャしか、大根しか作らないというようにはっきりと分業し合っている。そういう所で育つ子供たちは、白菜しか見たことがない、豚の鳴き声しか聞いたことがないという具合に、学ぶことが少ししかない。

   地域に与えられた特定の役割を打破することこそ、「地方分権」だと僕は思う。分権とは政治的権限が中央から地方に委譲されることだが、そのことは同時に、これまで中央や国家を支えるためだけだった地方が、何はともあれ自分自身を支えるためのものとして脱皮する、そんなものでなければ意味がない。ともあれ、「混在型の世界」でこそ人はよく育つと、僕は言いたいのである。

1.

同筆者は、①現代を生きる人間が立ち向かうべきは、いったいどんな「自然」だと考えているか。

2.

人間的自然とは、ここではどういうことか。

3.

筆者が考える③人間にとって貧しいとは、どういう意味か。

4.

町や村はある牲定の機熊を押し付けられているとあるが、それはなぜか。

   今の子どもたちはテレビやゲーム遊びが中心となってしまったから、疑問を持ったり質問したりする癖を失っている。与えられた情報をいかに使いこなすかが関心事になっているからだ。「疑う」のはかったるい、そのまま信じる方が楽なのに、と思う習慣が身についている。そのような場合には、「①断技術」を教えねばならない。「疑う」方が世界が広がり、もっと面白いことが隠れていることを実感させれば、子どもたちは「疑う」ことに夢中になると請け合える。

 「疑う技術」を教えるためには、大人が子どもを挑発する必要がある。次々と質問を発してアレコレ考える楽しみを味わわせるのだ。それによって子どもたちはいかに多くの不思議にとり囲まれているかがわかってくる。周囲の大人が「疑う心」を持っておれば、子どもも自然に同調するものなのだ。

   むろん、世の中が円滑に回るためには、②共通に定められたルールを「信じる」ということが欠かせないのは事実である。ルールそのものを信じ、みんながルールを守ることを信じ、ルール違反には罰則が科せられることを信じる、それがあってはじめて社会生活が営めるからだ。しかし、私はそのルールさえいったん疑い、納得の上で信じるとかみかかいうふうに変わるべきだと思っている。ルールは(かみ)(がか)り的に上から与えられるものではなく、社会を構成する人間が一致して決めるべきものであるという観念を養う必要がある。(中略)

 「疑う」ばかりで、「信じる」が後回しになるのは心配だと思われるかもしれない。私が言いたいことは、「疑った上で納得すれば信じる」ということである。そうであれば、何を信じ、何が信じられないかの区別がつくだろう。信じることをいったん留保して、疑い続けねばならない場合もあることを学ぶ必要もある。単純なルールであっても、いろんな側面があることを知ることは人生にとって大切であると教えるのだ。ルールだけではない。自然界の現象について「なぜそうなるの?」と疑問を持ち、機械や道具の仕組みに「どんな仕掛けになっているの?」と考え、世の中の風習に「なぜそうしなければならないの?」と不審に思う。そのように疑い続けることが自然や社会の実相をつかむ根源の力になると思うのだ。単純に信じる方が時間がかからず手っ取り早いが、それでは社会に従属するだけになってしまう。

1.

疑う技術とはどういうものか。

2.

筆者は、②共通に定められたルールについてどのように考えているか。

3.

「疑う」ことにはどのような利点と難点があるか。

4.

この文章で筆者が言いたいことは何か。

問題4 次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

A

   新学期に備えて、辞書の選び方について考えてみたい。

   電子辞書を使っている学生は「何冊もの辞書の内容がコンパクトな手帳サイズの中に入っているので持ち運びが楽だ。手書き入力やジャンプ機能などいろいろな調べ方ができるのも魅力」と言っている。

   一方、紙の辞書を使っている学生は「確かに紙の辞書は重いけど、調べた言葉がどこにあったか覚えているので、忘れにくい。調べた言葉の前後の項目も自然に目に入り、幅広い知識が得られる」と話している。

   まず自分がいつ何のために辞書を使うのかをよく考えることが大切である。

B

   最近、電子辞書を持つ中高生が増えている。一つの電子辞書に国語、英和、和英など数冊の辞書が入っているので、携帯に便利だ。しかも調べたい語を素早く検索できる。値段が高いことを除けば、学生のニーズに合っているといえよう。

   しかし、教師や親は従来の紙の辞書を薦める向きが多い。「学習」ということを考えると、紙の辞書のほうが効果が高いと考えるからだ。特に「調べ言葉の前後を読む」ということを重要と考えているようだ。

   検索慣れしている現在の学生には電子辞書のほうが支持されるだろうが、教師のアドバイスに耳を傾ける必要もあるのではないだろうか。

1.

 AとBのどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

2.

電子辞書と紙の辞書の選び方について、Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

3.

教師が紙の辞書を薦める理由は何か。

A

   昼間の明るい時間を有効利用するための「サマ-タイム(夏時間制度)」の導入に向けた関連法案の次期国会提出が確実視されている。サマータイムは日照時間が長い期間、時計の針を一時間進める仕組みだ。戦後導入された時期もあたが、労働時間が増加するなどの理由で廃止れた。今般、照明や冷房などの電力節約、つまり温暖化対策として再度提言された。さらに夕方の明るい時間帯のレジャー活動活性化によって約九千七百億円の経済効果、十万人の雇用創出につながるという。経済波及効果もさることながら、サマータイムは自然のサイクルに合った生活スタイルを考える契機ともなり、「アフタ一五」に家族や友人との付き合い、余暇活動など「潤いのある生活」を取り戻すこともできると期待されている。

B

   温暖化対策の一環としてサマータイム制度の導入が提言されている。豊かなライフスタイル、省エネ、経済波及効果など、その効果に期待が高まっている。しかし、サマータイムが身体のリズムや睡眠に悪影響を及ぼすことは、多くが指摘するところだ。ヨーロッパでは、時計の針を一時間進めたことで、睡眠時間が短くなり睡眠効率も低下するという調査報告がある。日本人の睡眠時間は年々減っており、欧米諸国の平均より一時間短い。しかも八0%の人が夜十時過ぎても起きている夜型社会だ。中高生では夏休みに就寝時間が遅くなり、新学期に起きられず不登校になるケースもある。不眠症に悩む高齢者も多い。夏冬の日照時間の差が大きい北半球の高緯度地域では効果もあるだろう。それをそのまま日本に当てはめることはできない。日本では現在四五人に一人が不眠などの問題を抱えており、うつ病に伴う不眠も多い。温暖化対策の視点も重要だが、健康への影響を考慮するべきだろう。

1.

サマータイムを導入することに関して、AとBのどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

2.

 サマータイム制度の導入について、Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

3.

サマータイム導入検討に当たって、AとBの筆者がそれぞれ重視しているものは何か。

A

   女性の育児休業取得率が90.6%とこれまでの最高を記録したことが、厚生労働省の調査でわかった。育児休業後の支援でも、約1年間の短時間勤務制度を導入している事業所の割合や、小学校就学時までの短時間勤務を続けることができる事業所の割合は、いずれも増加しており、育児休業に対する世の中の理解が広まってきたことがわかる。

   一方、男性の取得率は1.23%である。男女で育児休業取得率に大きな差が見られることについて専門家は、「女性はこれまで出産退職が多かったが、厳しい経済状況下、家計のために仕事を辞められない人が増えており、男性では育児休業取得によるリストラを不安に感じる人が増えているのだろう」と分析している。

B

   厚生労働省の雇用均等基本調査によると、男性の育児休業取得率は1.23%にとどまり、女性の取得率90.6%との差が広がっていることがわかった。また、取得期間についても、女性では「10〜12カ月未満」が最も多かったが、男性では「1カ月未満」が過半数であった。        

   男性が育児休業を取得しないのは、制度の利用によって受ける不利益を心配してのことだといわれる。実際、制度取得後の労働条件は「明示しない」など、過半数の事業所で規定が()(めい)(りょう)であった。

   厚生労働省は8年後までに男性の育児休業取得率を10%にするという目標を掲げてる。しかし、調査結果を見ると、制度取得後の労働条件についての法整備なくして、この達成はかなり難しいと言わざるを得ない。

1.

AとBのどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

2.

男性の育児休業取得率の目標値の達成について、Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

3.

男女の育児休業取得率に差が広がった理由は何か。