Đề thi luyện kỹ năng Đọc hiểu - JLPT N1

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185


Hoàn thành
読解
問題1 次の文章を読んで、文章全体の内容を考えて、以下の中に入る最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   夜の時間に行う野球そのほかの試合を「ナイター」と言っている。「デーゲーム」に対して「ナイトゲーム」といういい方も最近よく聞くが、「試合」のことを平気で「ゲーム」というようになったのは比較的最近のことではなかろうか。それまでは「ゲーム」というと子供の遊びというニュアンスが強かった。だから、真剣勝負の気合で臨む試合に対して「ゲーム」という言葉を使うのは抵抗があったことだろう。

1.

「ゲーム」という言葉について、筆者はどう考えているか。

   ある美術評論家の言ったことが心に残っている。「人間は早くから概念(がいねん)を与えられるとエネルギーが低いレベルに(おさ)えられてしまう。エネルギーがあふれるほどわき出るようにするためには概念崩(がいねんくず)しをしなければならない。つまり、子供に絵を()かせる場合に、 『マルかいて、眉毛(まゆげ)かいて、目鼻かいて』というような手順で、つまらない顔を描かせている先生が多いけれども、それではダメだ。顔というのは、その子供がどこへ鼻をつけようと目を描こうと、子供らしい表現であることが大事なのだ」というようなお話だった。

2.

概念崩(がいねんくず)とあるが、子供に絵を描かせるときの「概念崩し」とはどういうことか。

お知らせ

   東西市では大災害発生時の緊急避難場所の地図を作成致しました。避難場所は各小学校・中学校を中心としております。地域の方がどの学校に避難すればいいかわかりやすいように色分けされています。避難場所には水及び保存用食料、宿泊用テントなどの準備があります。災害時には医療サービス・炊き出しサービスなども行われます。また、ご家族の安否確認も行われます。尚、各ご家庭への配布は8月末の予定です。①これを機会に地図を元に災害時にどうするかをご家族で話し合ってください。

3.

これを機会にとはどんな機会か。

   全国各地の街々には街路樹がある。私は木や森と関わることを職業としているせいもあるが、やはり街路樹がしっかりと植えられる街でないと好きになれない。私でなくとも、読者の中にもそういう人が多いにちがいない。街路樹の良さがその町の品格を代弁する側面がある。街路樹をまったく大切にしない自治体があったとしたら、その自治体にはどこかに欠点があるといってもいいだろう。

4.

筆者は、街路樹はどのようなものだと言っているか。

   女性の誇りはいかに質の高い愛をもらったか、いかにたくさん愛をもらったか、ということです女性はいつの時代も愛されることに命をかけています。世界中の女性がそう思って生きているのです。ほとんど例外はありません。キレイになりたい、という女心は、愛されたいがゆえの願望です。キレイになりたくない、などと思う女性は、百人に一人いるかいないかという確率です。かわいい自分になってたくさんの男性を引き寄せ、その中から質の高い男性を選ぼうとするのが女性というものです。それが女性の戦略です。

(岩月謙司「女は男のどこを見ているか」筑摩書房)

5.

それ」は何を指しているか。

   ()の打ちどころのない人間は、いません。誰でも、どこか欠けています。欠けているところだけみつめると、自分はダメ人間だと思えてきます。劣等感(れっとうかん)とも言います。

   劣等感を忘れるときがあります。それは強いものの仲間に入って、「劣った人間」をばかにするときです。ほんとうは強くないのに、生まれつき強いものの仲間であるような気になって、劣等感から解放されます。

   差別されるものに、劣ったところがあるのでなく、差別するほうに、どこか劣ったところがあるのです。劣ったところを忘れるために、自分たちは強い仲間だという、つくり話をかんがえだします。自分たちは正常の人間だが、相手はきずものだときめつけることもあります。

(松田道雄『私は女性にしか期待しない』可岩波書店)

6.

文章の内容と最も合っているものはどれか。

「俺は料理が得意なんだ」

   と自慢げに語る男性の頭に、素材の値段やかかる時間、そして誰が後片付けをするか、などという問題は存在しません。あくまで趣味なのですから、高価な肉や滅多に使わない香辛料を駆使し、無駄をいっぱい出しながら料理をするのです。そして使い散らかされた道具を洗うのは、奥さんだったりする。

7.

筆者は男性の料理をどう思っているか。

   完全栄養食品とは文字通り解釈すれば、「これさえ食べれば他には何も食べなくても生活できる食物」ということになる。そんな便利な食物があるのだろうかーーー。

   いわゆる自然食品愛好家の中には「玄米(げんまい)(注1)は完全栄養食品」という人をときどき見かけるが、塩も水もとらないで、何ヶ月も過ごせるのだろうか。やはり無理があると思う。真剣に考えてみてほしい。

   実をいうと、たった一つだけあるのだ。ただし年齢制限があり、大人では無理である。こういえば分かると思うが、健康なお母さんのおっぱいからでる「母乳(ぼにゅう)」、これは正真正(しょうしんせい)(めい)、完全栄養食品だ。大人のように、やれ主食は何がいいとか、副食(ふくしょく)は何がいいだとか考えなくても、生命を維持し、成長する上で必要なものは全部含まれているのである。まさに「驚異(きょうい)の食品」と呼ぶにふさわしいものである。

   牛乳もまた完全栄養食品だ。しかし、人間にとってではない。あくまでも牛の赤ちゃんにとっての完全栄養食品だ。しかも、ビンや紙パックに入ったものではなく、母牛の乳房(ちぶさ)から直接飲んだ場合に完全栄養食品としての価値があるのである。

                                                                         (幕内秀夫『粗食のすすめ 』新潮社)

(注1)   玄米(げんまい)精米(せいまい)(米をきれいにする)前の米

(注2)   正真正銘(しょうしんしょうめい):本物

 

8.

文章の内容と最も合っているものはとれか。

   ある小学校の運動会で、競技は順位をつけないようにしよう、みんなで手をつないで走るようにしようという試みがありました。足の遅い子や運動能力の低い子を人格的に否定するおそれがある。それがひいては差別やいじめにつながるおそれがある。というのがその理由のようです。でも、何でもいっしょのなかよしクラブが本当の平等なのでしょうか。

(太田典生「人生をうるおすいい話」 PHP研究所)

9.

それ」は何を指しているか。

   楽天家の父から、「人は知らず知らずのうちに、最良の人生を選択している」と教わってきました。人生は、色々と枝分かれした分岐点の連続ですが、おのずとその最良の道に向かっているーーーーと。そう考えると、すべてが楽です。目先だけ見ると失敗でも、後で振り返った時、その失敗が成功につながる道であったりする。人生は、近道ばかり行こうとすると、そこに落とし穴があるかもしれない。少し遠回りした方が良いのかもしれません。

10.

筆者がここで最も言いたいことは何か。

お知らせ

文化活動支援のための助成金申請申込みの詳細をお知らせ致します。

★申請資格者: 日本の伝統芸能の研究あるいは普及に努めている非営利の団体

★申請期間: 2011年10月1日から31日(消印可能)

★申込み方法: 申請書類はホームページより印刷し、必要事項を記入し、添付書類を同封の上、下記住所にお申し込みください。

★添付書類: 団体の10年度を含む過去2年間の活動、会計報告書、及び次年度事業計画書。

11.

次のうち助成金を申請できるのはどれか。

   写真を撮るということは、そこにある時間と空間を切り取るということである。それは絵を描くこととも、ビデオで撮影することとも違う。もちろん、どちらも写真と同じように時間や空間を切り取ることもできるだろう。しかし、そこにあるのは一瞬の美しさとは違う。絵は描き手が見たものを移り行く時間とともに一枚のキャンバスに描き出していくことであるし、ビデオは空間を移り行く時間とともに記録していくものである。つまりそれらが切り取ることができる空間には時間の流れが含まれているのである。

   日本人は古来より一瞬の美しさ、はかなさを大切にしてきた。それはもちろん仏教からの影響もあるだろうが、日々変化していく自然とともに生活してきた農耕民族にとってはごく自然に生まれた感覚なのかもしれない。日本人が写真を好むと言われる理由にはそういったことが大きく影響しているのではないだろうか。

12.

文章の内容と合っているものはどれか。

問題2 次の(1)から(5)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   仮にあなたが知りあいから、エチオピアで飢餓に苦しむ難民救済のための募金に協力してくれと頼まれたとしよう。はじめから断ってしまえば、多少のうしろめたさは残るもののそれで一応、①事態は収まる。しかし、もし協力を表明したとすると、あなたは、募金箱に百円入れても、千円入れても、一万円入れても「なぜもっと出せないのか」と言われるかもしれないという、「つらい」立場に立たされることになる。

  (中略)先進国が今ある繁栄を獲得した要因となった種々の経済活動は、地球という、人類全体が共有すべき有限の資源を消費した結果であるという視点もありうる。そう考えるなら、南北の経済格差や南の国の飢餓の宿題は、その共有資源を消費した代償として得られた経済活動の果実の偏在に起因するものであり、単に、ある特定の地域の問題ではありえないという議論が妥当性を持つことになる、資源の消費に関しては最大の「貢献国」のひとつである日本の国民としては、自分だけ高い生活水準をエンジョイしつつ、世界に蔓延する飢餓は自分の問題ではないとは言いきれない。

   ②ボランティアが経験するこのような「つらさ」は、結局、自分ですすんでとった行動の結果として分自身が苦しい立場に立たされるという、一種のパラドックスに根ざすものである。

                             (金子郁容「ボランティアもうひとつの情懶社会」岩波書店による)

1.

事態は収まるとは、具体的にはどういうことか。

2.

筆者の考えによると、南北の経済格差や飢餓の問題を引き起こした要因は何か。

3.

ボランティア経験するこのような「つらさ」とは、どのようなものか。

   国内の優れた農業従事者が、その取り組みを発表する第61回全国農業コンクール全国大会(毎日新聞社、島根県主催)が、同県出雲(いずも)市で開かれた。(中略)

   最優秀の毎日農業大賞を獲得した「やさか共同農場」は、同県浜田市の山あいにある。コメや大豆などの有機栽培とみそなどの食品製造を組み合わせ、ブランド化に成功した。通信販売などの販路も開拓し、年間2億円以上を売り上げる。

   40年前に4人で始めた農場は法人化し、現在は35人が働く。農業研修生も受け入れ、若者の就農も支援している(中略)

   政府が、昨秋まとめた農業を再生・強化するための基本方針は、第1次産業の農業に、第2次、第3次産業である製造・販売業を組み合わせた「6次産業化」の推進、営業規模の拡大、若い世代の参入促進を柱にしている。

「やさか」の取り組みは、そうした強化策を先取りした好例だ。山あいの過疎地、冬には降雪で農作業もままならない。そんな悪条件、創意工夫で、乗り越えられることを実績で示した。

   大会では、多くの発表者が6次産業化の取り組みに触れた。生産者が、民間企業とも連携しながら加工・製造、販売まで一貫して手がけることで、「安全・安心」といったメッセージを伝え、消費者の支持を獲得したケースが目立った。

(毎日新聞2012年7月30日付朝刊による)

1.

この農業コンクールについて、本文の説明と合っているものはどれか。

2.

創意工夫とあるが、「やさか」の場合は具体的にどのようなことか。

3.

今回のコンクールではどのような事例の発表が多かったと筆者は述べているか。

   新石器時代に家が出現した。家の出現は、人々の日々の暮らしに安らぎといこいをもたらす。冬は暖かく、夏は(すず)しく、()が落ちて暗くなっても炉には火が燃えている。家のなかには風も雨も雪も入ってこないし、腹のへったクマやトラやライオンに襲われる心配もない。家族のもさぞ強まったことだろう。でも、家の効果はそうした日常的なことや実際的なことだけではなかった。人の心や精神にとって、きわめて重要な役割を果した。(中略)自分が修学旅行や夏休みの休暇(きゅうか)で長期に家を空けた時のことを思い出してください。

   “懐しい "(注)と思う。どうしてそう思うのか。もし自分がいない間に作り替えられていたら、ガッカリしこそすれ懐しさはない。逆にわけのわからない怒りがこみ上げるかもしれない。家が変わっていなかったからこそ懐しいという気持ちが()いてきたのだった。懐しいという心の働きは、喜怒哀楽(きどあいらく)の感情とはちがう不思議な感情で、人間にしかない犬は占い犬小屋を振り返ってシミジミするようなことはしない。人間が、昔のものが変わらずにあるシーンに出会った時に、この感情が湧いてくる。

   その時、自分の心のなかでは何が起きているんだろう。おそらくこうなのだ。久しぶりに見た家が昔と同じだったことで、今の自分が昔の自分と同じことを、昔の自分が今の自分まで続いていることを、確認したのではあるまいか。自分はずっと自分であ。

   人間は自分というものの時間的な連続性を、建物や集落の光景で無意護のうちに確認しいているのではないか。

   新石器時代の安定した家の出現は、人間の自己確認作業を強化する働きをした。このことが家というものの一番大事な役割なのかもしれない。

(藤森照信 『人類と建築の歴史』筑摩書房による)

(注)懐しい:一般的な表記は「懐かしい」

1.

家の出現が人々にもたらした変化として、本文の内容に合うものはどれか 。 

2.

自分というものの時間的な連続性とは、どのような意味か。

3.

筆者の考えによると、家が果たした最も重要な役割は何か。

   最近、脳波を利用しようとする研究の進歩が目覚ましい。BMI( ブレイン・マシン・インターフェース)という脳波と機械を接続させた装置も開発されている。BMI は脳神経が発王する微弱な脳波を測定し、解析し、その情報を電気信号に変換して機器に伝達する装置だ。具体的には、脳波で動く車椅予や光を見て電灯やエアコンをつける装置などで、医療や福祉の分野での期待が高まっている。

   BMI はアメリカやドイツで研究が進んでいるが、それらは主に脳波でロボットや装具を動かしたり体を刺激したりする装置である。研究の結果、失われた脳神経細胞も再生する可能性があることがわかってきた。そこで日本では外部装置の開発だけでなく、体の機能自体を回復させる BMI 装置の開発を進めてきた。この日本独自のアイディアは①脳波で装置を動かす。②装置を体に付けて同じ動作をする。③体から脳に「動いているよ」という信号が送られる。④脳が信号で刺激され脳自体が活性化する。この操り返しが脳を再生する。まだ実験段階だが効果は上がっている。早く実用化され、①夢が夢に留まらないようにしてほしいと切に願っている。

1.

夢が夢に留まらないとはこの場合何を示すか。

2.

どうして日本は脳自体を再生する研究を始めたのか。

3.

BMI の日本のアイディアは他の国の BMI とどこが違うか。

   非常ベルのたぐいで、一番心に残っているのは、ケニヤで見たものである。

   あれは何という動物保護区だったか、名前は忘れてしまったが、湿地帯(しっちたい)のまん中に、高床式(たかゆかしき)(注1)で建っていたホテルである。

(仲略)

   食堂の(わき)に、ガラス張りの大きなベランダがあり、そこから、目の前の沼沢地(しょうたくち)(注2)に水を飲みにくる動物を見物出来るようになっていた。

   そのホテルの部屋の、ベッドサイドにベルがついていて、「アニマル・コール」という札がついていた。

絶対に大丈夫だといっているが、象もいればヒョウもいる。①連中(れんちゅう)(注3)がその気になったら、体当たりだって出来るし、窓から(しの)び込むことも出来る。万一のときには、これを押せばいいんだなと、感心をしたのだが、これは私の早とちりであった。

   夜中に水を飲みにくる動物を、徹夜(てつや)で見張るわけにはいかない。何時に出てくるか(わか)らないし、一晩中にらんでいても出てこないこともある。

   そこで、自分の見たい動物を書いて、頼んでおくと、見張(みは)(注4)がいて、ヒョウが出たら、ヒョウを見たいと書いた人の部屋のベルが鳴るという仕掛(しか)けなのだ。

   「アニマル・コール」は、野獣襲撃(やじゅうしゅうげき)を知らせるのではなく、出ましたよ、見にいらっしゃいというサインなのである。

   私はヒョウとサイを頼んだ。

   鳴ることを祈りながら、いつ飛び起きてもいいよう、パジャマも着ず、着のみ着のまま、カメラと双眼鏡を枕もとに置いて横になったのだが、その夜、アニマル・コールは、沈黙(ちんもく)したままであった。

(向田邦子 『女の人差し指』文春文庫による)

(注1)高床式(たかゆかしき):床が地面から高いところにあるつくり方

(注2)沼沢地(しょうたくち):沼や浅い川になっているところ

(注3)連中(れんちゅう):彼ら

(注4)見張(みは)り:何かが起こるのをじっと監視(かんし)している人

1.

①「連中(れんちゅう)とはだれのことか。

2.

②「万一のとき」というのはどんなときか。

3.

「アニマル・コール」の説明として、最も適当なものはどれか。

   会話を進めるうえで、男女間では①対照的な特徴があった。

   たとえば、お互いの発話への支持作業のちがいだ。女性は男性の発話に対して、「ん」「そうー」「へえー」「すっご〜い」などの「あいづち」や「うなずき」を(ひん)(ぱん)に行っていた。これは、明らかに相手の語りを評価し、さらに話を進めていくことを支持する営みだ。

   対照的に、男性は女性の発話に対し、こうした支持作業をそれほど積極的に行っていなかった。

   また、同性間の会話に比べ、男性が女性の発話に割り込んでいく割合が多かった。

   会話における割り込み。これは単に相手の話をさえぎることではない。発話する権利の配分という点から考えれば、②ゆゆしき権力行使と言える。つまり、それは相手がしゃべることができる場でしゃべりきることを制止する権力行為であり、また、しゃべり終えたあと、会話において次の行為を決めることができる権利をも奪っていくのである。

   詳しくは、先にあげた論文を読んでほしいのだが、ここで言いたいのは以下のことだ。

   性差別という現象を考えるとき、歴史的な経緯や社会構造的な背景から、その原因を説得的に論じることもできるだろう。しかし、他方で③まさに日々、性差別はつくられ続けているのである。

1.

対照的な特徴とはどのような傾向のことか。

2.

作者が割り込みを②ゆゆしき権力行使と考える理由は何か。

3.

まさに日々、性差別はつくられ続けているとあるが、筆者の考えに近いものはどれか。

   日本料理に欠かせないのが出汁(だし)だ。和風の出汁の取り方は難しくはないが、料理のたびに出汁を作るのはかなり面倒だ。出汁の取り方も種々あるが、最もよく使う昆布と鰹節を使った出汁の取り方は以下の通りだ。(1)水 4 カップに昆布 8g を鍋に入れ、蓋をしないで火にかける。(2) お湯が沸騰する直前に昆布を取り出す。(3) 沸騰したら、鰹節 20g を入れて、すぐに火を消す。(4)鰹節が沈んだら、布巾を使って、 出汁をこす。一回ごとに作るのは面倒なので 2、3 日分作って冷蔵庫で保存する人もいる。それも面倒だとあって多くの人が今ではインスタントの出汁を使っている。インスタントの出汁はそのまま食材に混ぜて使うのが一般的だ。最近では出汁に醤油やみりん、 酒などを混ぜた液体のつゆの素が便利だと人気が高い。つゆなら醤油やみりんなどの分量を考える必要もない。誰もが失敗なく煮物などの日本料理ができる。

   ところで、海外で日本料理を作りたいと思っても調味料がなくてできない場合がある。出汁についてだけなら西洋料理でよく使われる調味料で代用することができるそうだ。驚いたことにケチャップで代用できるらしい。ケチャップをほんの少し使うことで日本の味ができる。ちょっと試してみたらどうだろうか。

1.

正しい出汁の取り方を述べているのはどれか。

2.

著者はどうして驚いたのか。

3.

最近の人は和風の調味料をどう使っているか。

   ハチドリという鳥を知っているだろうか。鳥のうちでいちばん小さく、体長わずか3センチという昆虫(こんちゅう)のような種類さえある。小さな巣を作って、 豆粒(まめつぶ)ぐらいの卵を産み、 花の(みつ)を食物にしている。 小さな(つばさ)をプーンと(ふる)わせ、 飛びながら花の(みつ)を吸うハチドリを初めて見た人は、 なにか童話(どうわ)の世界にいるような気がするに違いない。

   でも、 この鳥はこの現実の世界に生きている。①こんな小さな鳥が生きるということはそれ自体が不思議である。 なぜなら、 こんな小さな鳥は生きていられるはずがないからである。

   鳥は我々と同じく、 温血(おんけつ)動物つまり恒温(こうおん)動物である。 体温は外気(がいき)と関係なく一定に(たも)たれている。それが保てなくなったら、 人間が凍死(とうし)するのと同じように死んでしまう。 ところが、 体がこんなに小さいと、 体積にくらべて体の表面積(ひょうめんせき)(いちじる)しく大きくなる。つまり、 体温を保つのに必要な熱を発生する体の大きさの割に、 熱が逃げて行く表面積が大き過ぎるのである。 そこで、 ハチドリが生きていくのに込要な体温を保つには、 体の表面から逃げていく熱を絶えず(おぎな)っていなくてはならない。 そうでないと体温はたちまち下がってしまう。

   ハチドリは熱帯にいるから、 そんなことはないだろうと思う人もいるかもしれない。 しかし、 実際に ②ハチドリの「 経営状態」 、 つまり食べたもの( 収入) と体温維持のための熱発生( 支出) の関係を調べてみると、 入るそばから支出されて行き、 何とか収支が合うようにできていることがわかる。収入が断たれたら、 数時間のうちに倒産(とうさん)してしまう。つまり、 食べるのをやめたら、 たちまち熱発生も止まり、 体温が降下(こうか)して、 凍死してしまうのである。

   ハチドリも夜は木の枝にとまって眠らなければならない。 毎日12時間近く食べずに過ごすわけである。 本来なら、 この間にエネルギーの(たくわ)えが()き、 体温降下と凍死を招くはずである。 にもかかわらずハチドリは、 何万年もの間ちゃんと生きている。 なぜか。

   それは、 彼らが毎晩、 冬眠(とうみん)するからである。 熱帯の夜はけっして暑くない。気温は20度を割ることさえある。 ハチドリは夜が来ると、 温血(おんけつ)動物であることをやめる。 体温調節をやめて、 爬虫類(はちゅうるい)のような冷血(れいけつ)動物になってしまうのだ。体温は一気に気温のレベルにまで下がる。 呼吸もごくわずかになり、 筋肉も動かなくなる。 だから、 夜、 眠っているハチドリはかんたんに手で捕まえられるそうである。 そして、 朝が来て気温が上がると、 ハチドリの体温も上がる。 体温が一定の温度を超すと、 ハチドリは目覚め、 恒温(こうおん)動物となって、 花の(みつ)を求め、 飛び立つのである。

   ③そんなわけで、 この宝石のように美しいハチドリは、 一年中長雨(ながあめ)の降らない、 昼は一年中気温が高くしかも夜はかなり冷える土地、 主に中南米(ちゅうなんべい)の一部にしか住めないことになる。 もし、 中南米の気候が変わって、 雨が多くなるか、 冬ができるか、 夜も暑くなるかしたら、 そのどの一つの変化はろによってもハチドリは(ほろ)びるだろう。 その誕生とともに持って生まれた遺伝(いでん)仕組(しく)みと環境とが矛盾するからである。

( 日高敏隆「 人間についての寓話」 平凡杜による)

1.

①「こんな小さな鳥が生きているということはそれ自体が不思議である」 のは、 なぜか。

2.

ハチドリの「 経営状態」 とは、 どういう状態か。

3.

③「そんなわけ」 とは、 どういうことか。

4.

この文章から、 ハチドリについてわかることはどんなことか。

   高山病に苦しむ男を、TV劇のなかで、俳優が演じれば、「やらせ」にならない。はじめからつくり事(注)が約束だからである。同じ場面を、ネパール高原のNHK特別番組のなかで、撮影隊の一人が演じれば、「やらせ」になる。(中略)「やらせ」であるかないかを区別するのは、場面についての約束であって、場面のつくり方、でき上がった場面そのもの、その場面を見る人の反応ではない。TV劇でも、特別番組(「ドキュメンタリー」)でも、撮影の現場では、誰もほんとうに高山病ではない。場面はみせかけである。見る人は、一人の男がほんとうに高山病に苦しんでいるかのように信じて、みせかけの画面を眺め、主人公に同情したり、なるほどネパールの自然はきびしいと思ったりする。いずれにしても見る人はだまされるのであり、(中略)一方がだまされたくてだまされるのに対して、他方がだまされたくないのにだまされるというちがいがあるにすぎない。

   しかしネパール高原の「ドキュメンタリー」について、視聴者は、一体何にだまされたくないのか。撮影隊の一人が高山病にかかったかどうかは、個別的な事実の問題である。その事実を通して番組のいいたかったのは、おそらくネパールの自然のきびしさだろうが、ネパールの自然がほんとうにきびしいかどうかは、また別の問題である。だまされたくないのは、個別的な事実についてか、その事実の意味、さらには番組全体のいおうとした事についてか。そもそも「ドキュメンタリー」というもののあらかじめの約束は、そのどちらに(かか)るのか。もし後者に(かか)るとすれば、NHKのネパール高原番組は、必ずしも視聴者をだましたとはいえない。もし前者に(かか)るとすれば、そもそも視聴者をだまさない「ドキュメンタリー」は、容易にあり得ないだろう。

(加藤周一「やらせ」について 『夕陽妄語』朝日新聞社による)

(注)つくり事:作り話、うそ

1.

TV劇と特別番組の「やらせ」について、本文と合っているものはどれか。

2.

筆者によると、この特別番組が視聴者に伝えたかったのは何か。

3.

必ずしも視聴者をだましたとはいえないとあるが、なぜか。

問題3 次の文章を読んで、質問に答えなさい。答えは、1・2・3・4から最もよいものを一つえらびなさい。

   ある有名なインタビューアーが、「いろんな人に会わなくちゃならなくて、たいへんですね。いい人、好きな人だけじゃなくて、いやな人、きらいな人もいるでしょうに」と言われて、「いいえ、はじめから好きな人、きらいな人、ということはありません。はじめは虚心(きょしん)(注1)でその人に会うようにしています。最低限、その人に好意と関心をもつようにして」と言っていたのが①印象的である

   私たちは、人づてに聞いたことや、会ったときの印象で、ある程度、相手の人がらを決めてしまいがちである。

   その人の容貌(ようぼう)や服装やからだの特徴や、ことばづかいや動作や姿勢、さらにまた、職業や年齢や出身、経験、社会的地位などといったものからでも、どんな人か、何らかの先入主(注2)を抱く。出会ったときの、自分側の条件や、その場面にもよるわけだが、そういうことを割り引いて、冷静に考える人はまれで、たいていは、自分のこれまでの体験から、あれはこういう人だ、というイメージをつくり上げる。過去の経験で似た人がいれば、その人の印象が重なってくる。意識的に払いのけようとしても、この第一印象は、強い影響をあとに残す。

(中略)

   結婚のための見合いのような場合、内心強い劣等感を持っていて、きらわれるのではないかという恐れを抱いていると、相手に対する見方にも、バイアス(かたより)が生ずる。畏怖(いふ)(注3)して、相手が実物以上によく見えたり、逆に、反動的に、なにかにつけて、わるく、低く見ようとしたりする。

   人生、はじめての出会いは、すべて、見合いみたいなものだが、②身がまえてコチコチになっていると、相手の姿が正確に見えない。特に利害がからむと、バイアスがかかりやすく、かたよった先入主を抱きがちである。ずるそう、おっかなそう、きつそう……など。それは、多分に、③自分側の気持ちを、相手のイメージに投影しているのである。

   身がまえることなく、フランクに、相手を受けいれることが、いかに難しいか。自己防衛的な身がまえは、相手に対して、ドアを閉じようとしている姿勢である。ある有名なインタビューアーが言ったように、虚心坦懐(きょしんたんかい)(注1)、自分の心のドアを開け、人に接しようとする心がけが必要である。パッと見た瞬間の印象にとらわれたり、こだわったりすると、人間関係は玄関先でギクシャクする。

(本明寛「自分を豊かにする心理学」による)

(注1)虚心 虚心坦懐:先入観なく相手をありのままに受け入れる心

(注2)先入主:先入観

(注3)畏怖:おそれ

1.

①「印象的である」とあるが、何が印象的だったのか。

2.

②「身がまえてコチコチになっている」というのは、どういうことか。

3.

③「自分側の気持ちを、相手のイメージに投影している」例として適当なものはどれか。

4.

この文章で筆者が最も言いたいことは何か。

   生老病死をなぜかみな嫌がります。できれば考えたくない。そこでどうするかというと、たとえば人間が生まれるのも特別なことだから、病院へ行ってくれというのです。そうして、お産は現在ほとんど病院で行われている。(中略)

   生老病死の最後の死ぬところですが、これも都会ではもう90% 、いや99% の人が病院で亡くなります。私の母は、95年の3月、自宅で死にましたが、いつの間にか死んでいました。しかし大半の人々は病院で死にます。このように死ぬ場所が病院に移ったのはここ25年の傾向で、急速にそうなりました。以前は半分以上が自宅で亡くなっていました。では、自宅で亡くなることと、病院で亡くなることの違いは何かーーー。 これは、我々が普通に暮らしている[  A ]の中に、[ B ]がなくなってしまったということなのです。だから、死が特別なことになった。そして特別なことは特別な場所で起こることになったのです。

   そんな現代は、 よくよく考えてみると、大変な異常事態なのです。生老病死というのは、人の本来の姿です。こっちが先で、何千年何万年も続いてきた間違いのないことなのです。都市よりも文明よりも何よりも先に生老病死があった。だから私はこれを「①自然」と呼ぶのです。人の一生は好きも嫌いもなく時期経過とともに変化していく。それが自然の姿なのだと私は思う。なのにいまは自然つまり本来の姿であるほうが異常になってしまった。

   かけがえのない未来を大切にしていない典型的な例をあげてみます。私は95年の3月に東大(注)をやめました。正式には94年の9月の教授会でやめることが決まりました。教授会のあと同僚の病院の先生が来られて、「先生、4月からどうなさいますかと話されるのです。「3月でおやめになるそうですね」「やめます」「4月からどうされるのですか」。これは、勤めはどうするのですかという質問です。私は「私は学生のときから東大の医学部しか行ったことがないので、やめたら自分がどんな気分になるかわかりません」と申し上げました。「やめてから先のことはやめてから考えます」と。するといきなり「そんなことで、よく不安になりませんな」と言うのです。思わず「先生も何かの病気でいつかお亡くなりになるはずですが、いつ何の病気でお亡くなりになるか教えてください」と言い返してしまいました。「そんなこと、わかるわけないでしょう」と言うなら、「それでよく不安になりませんな」と申し上げました。

   ここで②はっきりわかることがあります。特に東大のお医者さんです。大学病院ではしょっちゅう患者さんが亡くなるので、人が死ぬということが、自分の仕事の中にきちっと入っています。ところがそういうお医者さんが、自分が死ぬということに現実感を持っていない。自分が病気になって死ぬことよりは、勤めをやめたりやめなかったりする、そのことのほうがよほど重要なことだと思っているのです。

(注)東大:東京大学

1.

[ A ]  と [ B ] に入る言葉の組み合わせはどれか。

2.

筆者が①自然と考えるものはどれか。

3.

筆者は、どんなことが②はっきりわかると言っているのか。

4.

筆者の考えに最も近いものはどれか。

   かつてアラビア半島の奥地、サウジアラビアのサバクに、ベドウィン遊牧民の生活を取材するため住み込んだことがある。サバクの生活を切りあげて首都リヤド市に帰り、ホテルに泊まっていたとき、わたしの部屋は314号室だった。ある日のこと、受付で自分の番号を言ってカギをもらい、部屋の前まで行ったとき、カギは別室(316号)のものであることに気づいた。受付に戻ってカギの番号を見せながら、「部屋に入れませんでしたよ」と、相手を責めないための心づかいで、わたしは微笑しながら言った。全く予期しなかった答えが返ってきた。一「あなたが間違った番号を言ったのです」

   わたしが予期していたのは「や、これは失礼しました」というひとことなのだ。このとき、もしわたしが初めてアラブと接したのだったら、「あるいは自分が違った番号を言ったのかもしれない」と思っただろう。しかし既に彼らのものの考え方をサバクで学んでいたわたしは、「まさにベドウィン的だ」と思っただけであった。①ベドウィン的な考え方によれば、自分の失敗を認めることは無条件降伏(こうふく)を意味する。例えば皿洗いの仕事をしている人が百円の皿を割って、もし自分の過失を認めたら、相手がベドウィンなら弁償金を千円要求するかもしれない。だから皿を割ったアラブは言う。「この皿は今日割れる運命にあった。おれの意志と関係ない」

これが日本ならどうだろう。普通の日本人だったらこの場合(ただ)ちに言うにちがいない。「まことにすみません」丁寧(ていねい)な人はさらに、「わたしの責任です」などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかしこの美徳は、世界に流用する美徳ではない。まずアラブは正反対。インド人もアラブに近いだろう。フランス人だ「イタリアの皿ならもっと丈夫だ」というようなことを言うだろう。

   わたし自身の体験では狭すぎるので、多くの知人・友人または本から、このような「②過失に対する反応」の例を採集した結果、どうも③大変なことになった。世界の主な国で、皿洗いの人が皿を割って直ちに謝る習性があるところは実に少ない。「わたしの責任です」などとまで言ってしまうお人よしは、まずほとんどない。日本人とアラブとを正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラブ寄りである。中国やベトナムもしかり。ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうにもないささいなこと(体に触った、ゲップをした、など)であるかぎり、「すみません」を日本人よりも軽く言う。この謝罪は、「謝罪」というよりもむしろ一種の慣習である。慣習だからこそ、社会をスムーズに動かす潤滑油として大切なのだ。

   だが、日本人と確実に近い例をわたしは知っている。それは、かつて訪れたことのあるニューギニアのモニ族や北極地方のエスキモーである。モニ族は、わたしのノートをあやまって破損したときでも、カメラのレンズに土を付けたときでも、直ちに「アマカネ(すみません)」と言って恐縮した。そして、さまざまな国の歴史を比較検討してみると、おざっぱにいってこんな傾向のあることがわかる。「異民族の蹂躙(じゅうりん)(注)による悲惨な体験をもった民族ほど、自分の過失を認めたがらない」

   日本人やエスキモーやモニ族は、異民族による蹂躙の恐ろしい体験を、一部を例外として、歴史上あまりもたなかったようだ。

   基本的なものの見方について考えると、ベドウィンの特徴、ひいてはアラブの特徴は、日本の特殊性よりもずっと普遍的なのだ。わたしたちの民族的性格は、アラブ諸国やヨーロッパや中国よりも、ニューギニアにより近いとさえ思われる。探検歴の最も豊富な日本人の一人、中尾佐助(なかおさすけ)教授にこの話をすると、教授は言った。—-「④日本こそ世界の最後の秘境かもしれないね

(本多勝一「民族と文化」「国語3」光村図書による)

(注)蹂躙(じゅうりん):暴力や権力によって他の権利を侵したり、社会秩序を乱したりすること

1.

①「ペドゥィン的」とはどういうことか。

2.

③「大黕こと」とは何か。

3.

④「日本こそ世界の最後の秘獎かもしれないね」とはどういうことか。

4.

②「過失に対する反応」がだいたい同じと考えられる組み合わせはどれか。

   子どものときから、 忘れてはいけない、 忘れてはいけない、 と教えられ、 忘れたと言っては(しか)られてきた。 そのせいもあって、 忘れることに恐怖心を抱き続けている。 忘れることは悪いことと決めてしまっている。

   学校が忘れるな、 よく覚えろ、と命じるのはそれなりの理由がある。教室では知識を与える。知識を増やすのを目標にする。せっかく与えたものを片端(かたはし)から捨ててしまっては困る。よく覚えておけ。 覚えているかどうか時々試験をして調べる。 覚えていなければ減点(げんてん)して警告(けいこく)する。点はいいほうがいいに決まっているから、 みんな知らず知らずのうちに、 忘れるのをこわがるようになる。

   教育程度が高くなればなるほど、 そして、頭がいいと言われれば言われるほど知識をたくさん持っている。つまり、 忘れないでいるものが多い。頭の優秀さは、 記憶力の優秀さとしばしば同じ意味を持っている。

   ここで、われわれの頭をどう考えるかが問題である。

   ①これまでの教育では、 人間の頭脳を倉庫のようなものだと見てきた。知識をどんどん蓄積(ちくせき)する。倉庫は大きければ大きいほどよろしい。中にたくさん詰まっていればいるほど結構だということになる。

   ②倉庫としての頭にとっては、 忘却(ぼうきゃく)は敵である。 ところが、 こういう人間の頭脳にとっておそるべき敵が現れた。 コンピューターである。 これが倉庫としてはすばらしい能力を持っている。 いったん入れたものは決して失わない。 必要な時には、 さっと引きだすことができる。 整理も完全である。

   コンピューターの出現(しゅつげん)、 普及にともなって、 人間の頭を倉庫として使うことに疑問がわいてきた。 コンピューター人間を育てていたのでは、 本物のコンピューターにかなうわけがない。

   そこで、 ようやく人間の創造性(そうぞうせい)が問題になってきた。コンピューターのできないことをしなくては、 というのである。

   人間の頭はこれからも、 一部は倉庫の役を続けなければならないだろうが、 それだけではいけない。新しいことを考え出す工場でなくてはならない。 倉庫なら、 入れたものを紛失(ふんしつ)しないようにしておけばいいが、 ものを作り出すには、そういう保存保管(ほぞんほかん)の能力だけでは仕方ない。

   第一、 工場に余計なものが入っていては作業能率が悪い。 余計(よけい)なものは処分(しょぶん)して広々としたスペースをとる必要がある。 そうかと言って、全てのものを捨ててしまっては仕事にならない。③整理が大事になる

   倉庫にも整理は欠かせないが、 それはものを順序よく並べる整理である。それに対して、 工場内の整理は、 作業のじゃまになるものを取り除く整理である。 この工場の整理に相当するのが忘却(ぼうきゃく)である。 人間の頭を倉庫としてみれば、 危険視(きけんし)される忘却だが、 工場として能率(のうりつ)を良くしようと考えれば、 どんどん忘れてやらなくてはいけない。

   そのことが今の人間にはわかっていない。 それで、 工場の中を倉庫のようにして喜んでいる人が現れる。 それでは、 工場としても倉庫としても、 両方ともうまく機能しない頭になりかねない。 コンピューターには、 こういう忘却ができないのである。 だから、 コンピューターには倉庫として機能させ、 人間の頭は、 知的工場として働かせることに重点を置くのが、 これからの方向でなくてはならない。

( 外山滋比古「『思考の整理学』 筑摩書房による)

1.

①「 これまでの教育」 とあるが、 どのような教育か。

2.

②「 倉庫としての頭」 とあるが、 どういうことか。  

3.

③「 整理が大事になる」 とあるが、 どういうことか。

4.

この文章で筆者が言いたいことは何か。

  我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を旅行しようと、何をしようと、小さい。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学問はただの大風呂敷(おおぶろしき)(注1) になる。言葉の風呂敷(ふろしき)はいくらでも広げられるから、そうやっているうちに自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、①そんな錯覚に捕らえられる。木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる農夫(のうふ)とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界標準の稲を育てたりはできないから、彼らはみな、自分の仕事において賢明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学問をすること、書物に学ぶことは、 ほんとうは②これと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたとはみな、我が身ひとつが天地の間でしっかりと生きることだからだ。

   人は世界的にものを考えることなどはできない。それは錯覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を開いていることならできる、我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人間なら、それかどういうのことかは、もちろん知っている。人は誰でも自分の気質を背負って生まれる。学問する人にとって、この気質は、農夫(のうふ)に与えられる土壌ようなものである。土壌は天地に開かれてなければ、ひからびて(注2)不毛になる。

   与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学問や思想もまた、人の気質にえられた苗のように育つしかないのではないか。子供は、勉強して自分の気質という土を耕し、水を引き、もらった苗を、書物の言葉を植えるのである。 それは、子供自身が何とやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる書物とともに育つことができる。子供が勉強をするのは、自分の気質という土壌から、やがて実る精神の作物を育てるためである。「教養」とは、元来この作物を指して言うのであって、(もの)()り(注3) たちの大風呂敷(おおぶろしき)を指して言うのではない。

(注1)大風呂敷(おおぶろしき):実際より大きく見せたり言ったりすること

(注2) ひからびて:乾ききって

(注3)(もの)()り:物事をよく知っている人

1.

そんな錯覚に捕らえられるとはどういう意味か。

2.

これとは何を指すか。

3.

この文章では、学問をするということをどのような例を使って説明しているか。

4.

筆者は「教養」をどのようなものだと考えているか。

   最近、思想を表現する方法について考えることが多くなった。たとえば、文章は思想を表現する方法のひとつだけれど、その文章にもいろいろな表現形式がある。哲学の勉強をはじめた頃の私は、さまざまな形式のなかで論文という形式だけが、思想表現の方法にふさわしいと思っていた。

   しかし、後に、この考え方を訂正しなければならなくなった。思想の表現として、論文が唯一の方法だということは絶対にない。私たちは、すぐれたエッセーや小説、 詩をとおして、しばしば思想を学びとる。とすれば、思想を表現する文章のかたちは、自在であってよいはずである。

   ところが、そう考えてもまだ問題はある。というのは、思想の表現影式は、文章というかたちをとるとは限らないのだから。絵でも彫刻でも、音楽でも、つまり実にさまざまなものを用いて、思想を表現するのは可能なはずである。そのなかには、かたちにならないものもある。

   たとえば私の村に暮らす人々のなかに、自然に対する深い思想をもっていない人など一人もいない。村の面積の96パーセントを森や川がしめるこの村で、自然に対する思想をたなかったら、人は暮らしていけない。ところが村人は、<自然について>などという論文を書くことも、文章を書くこともないのである。そればかりか、自分の自然哲学を、絵や音楽で表現しようとも考えない。

   そんなふうにみていくと、村人は自然に対してだけではなく、農についての深い思想や、村とは何かという思想をももっているのに、それらを何らかのかたちで表現することも、またないのである。

   とすると、村人たちは、どんな方法で自分たちの思想を表現しているのであろうか。私は、それは、<作法>をとおしてではないかという気がする。
(中略)
   考えてみれば、もともとは、作法は、思想と結びつきながら伝承されてきたものであった。たとえば昔は、食事の作法を厳しくしつけられた。食べ物を残すことはもちろんのこ、さわぎながら食事をすることも、けっしてしてはいけなかった。それは、食事は生命いただくものだ、という厳かな思想があったからである。茶碗(ちゃわん)の中の米だけをみても、人間はおそらく何万という生命をいただかなければならない。だから、そういう人間のあり方を考えながら、いま自分の身体のなかへと移ってくれる生命に感謝する。この思想が食事の作法をつくりだした。

   ところが、近代から現代の思想は、このような、日々の暮らしとともにあった思想を無視したのである。その結果、思想は、文章という表現形式をもち、文章を書く思想家のものになった。そして、いつの間にか人間の上に君臨し、現実を支配する手段になっていった。

1.

かたちにならないものとして筆者が挙げているのはどれか。

2.

この文章中で筆者は、自分の村に暮らす人々がどんな思想をもっていると述べているか。

3.

食事の作法は、次のどのような考え方と結びついているか。

4.

この文章中で筆者が述べていることはどれか。

問題4 次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

A

B

 

1.

A と B のどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

2.

「新常用漢字表」について心配されていることは何か。

3.

A と B は「新常用漢字表」についてどのような立場をとっているか。

A

   昼間の明るい時間を有効利用するための「サマ-タイム(夏時間制度)」の導入に向けた関連法案の次期国会提出が確実視されている。サマータイムは日照時間が長い期間、時計の針を一時間進める仕組みだ。戦後導入された時期もあたが、労働時間が増加するなどの理由で廃止れた。今般、照明や冷房などの電力節約、つまり温暖化対策として再度提言された。さらに夕方の明るい時間帯のレジャー活動活性化によって約九千七百億円の経済効果、十万人の雇用創出につながるという。経済波及効果もさることながら、サマータイムは自然のサイクルに合った生活スタイルを考える契機ともなり、「アフタ一五」に家族や友人との付き合い、余暇活動など「潤いのある生活」を取り戻すこともできると期待されている。

B

   温暖化対策の一環としてサマータイム制度の導入が提言されている。豊かなライフスタイル、省エネ、経済波及効果など、その効果に期待が高まっている。しかし、サマータイムが身体のリズムや睡眠に悪影響を及ぼすことは、多くが指摘するところだ。ヨーロッパでは、時計の針を一時間進めたことで、睡眠時間が短くなり睡眠効率も低下するという調査報告がある。日本人の睡眠時間は年々減っており、欧米諸国の平均より一時間短い。しかも八0%の人が夜十時過ぎても起きている夜型社会だ。中高生では夏休みに就寝時間が遅くなり、新学期に起きられず不登校になるケースもある。不眠症に悩む高齢者も多い。夏冬の日照時間の差が大きい北半球の高緯度地域では効果もあるだろう。それをそのまま日本に当てはめることはできない。日本では現在四五人に一人が不眠などの問題を抱えており、うつ病に伴う不眠も多い。温暖化対策の視点も重要だが、健康への影響を考慮するべきだろう。

1.

サマータイムを導入することに関して、AとBのどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

2.

 サマータイム制度の導入について、Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

3.

サマータイム導入検討に当たって、AとBの筆者がそれぞれ重視しているものは何か。

A

日本では、 (せい)は一つの家族のまとまりを示すものである。 だから家族が皆同じ姓を名乗ることで、 連帯感(れんたいかん)を感じることができる。 結婚して、 好きな人と同じ姓になることはうれしいことだし、 結婚したという実感がわき、 共に新しい家族を作っていこうとする大事な契機(けいき)にもなる。夫婦の大半が男性の姓を名乗ることは差別ではないかという主張もあるが、 それは差別ではなく「 慣習(かんしゅう)」 である。 欧米のように、 ファーストネームで呼び合う文化とは異なり、 名字(みょうじ)で相手を呼ぶ習慣の日本では、 夫婦が同姓であることの社会的意義(いぎ)は、 はるかに大きいと思われる。 もし、 姓が変わることが女性の仕事に不都合となるなら、 仕事の時だけ旧姓(きゅうせい)を使うことを認めればよく、 多数が満足している現状を変える必要はないだろう。

B

夫婦が別々の姓になると「 家庭が崩壊(ほうかい)する」 という人もいるが、 家族を不幸にしようと思って別姓を選択する人などいない。 むしろ姓が違うからというだけで、 家族のつながりを感じられないことが問題ではないか。夫婦別姓となれば、 何らかの事情で母親や父親と名字が違う子供が差別されることも少なくなるだろう。 また、 現在は、女性は旧姓(きゅうせい)だと独身、 改姓(かいせい)すれば既婚(きこん)、 また旧姓に戻れば離婚したことも明白だ。 これは女性のプライバシー侵害(しんがい)につながりかねないが、 男性にはそういった心配が少ない。 さらに、 仕事を持つ女性が名字が変わったことを取引先などに知らせるには、 電話代や葉書(はがき)代、 本人の労働時間など、 多大なコストがかかる。夫婦同姓が日本の文化や習慣だという意見もあるが、 文化や習慣は時代と共に変化するものである。女性の選挙権や社会進出にしても、 その時の慣例(かんれい)を打ち破ってきたものであったはずだ。

1.

夫婦別姓(べっせい)について、 AとB はそれぞれどのような立場をとっているか。

2.

(せい)に関連して、 AもしくはBの一方でしか触れられていないことはどれか。

3.

夫婦同姓について、 Aの筆者とBの筆者に共通している意見はどれか。