Đề thi luyện kỹ năng Đọc hiểu - JLPT N1

Thời gian còn lại:

184

読解
内容理解(短文)
統合理解

Hoàn thành
読解
問題1 次の文章を読んで、文章全体の内容を考えて、以下の中に入る最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   子供の成長のために、母親の愛はかけがえのないものである。身近に自分を保護してくれるもの(母親)がいるという安心感にささえられていてこそ、子供は、正常な成長をとげることができる。

   母親が、何らかの事故でいなくなってしまったサルの場合、子ザルはかなり大きくなっても、ほとんど動こうとせず、仲間にもうちとけていくことができない。したがって、母ザルの愛を欠いた子ザルは、群れ(社刽)の正常なメンバーとなることは難しい。

1.

母ザルの愛を欠いた子ザルは、どうして群れの正常なメンバーになることができないのか。

   欧米人が「個」として確立された自我をもつのに対して、日本人の自我-それは西洋流にいえば「自我」とも呼べないだろうーは、常に自他との相互的関連のなかに存在し、「個」として確立されたものではない、ということであった。

   西洋人からは、この点に関して日本人の無責任性とか、他人志向(しこう)性などと言って非難されることもある。

           (河合隼雄『日本人とアイデンティティーー心理療法家の着想-』講談社)

2.

この点」は何を指しているか。

   集団にも個人とおなじように、それぞれ性格があるのはたしかだ。しかし、例外というものがある。それが千に一つの例外であるとか、百に一つ、十に一つといったふうに、程度に差があって、取り扱いもウエイト(注)をかえねばならない。いずれにしても、一つの例外を拡大して、それを集団の性格であると規定すれば、おとし穴に落ちたことになる。

(注)ウエイト:比重

3.

筆者が最も言いたいことは何か。

お知らせ

文化活動支援のための助成金申請申込みの詳細をお知らせ致します。

★申請資格者: 日本の伝統芸能の研究あるいは普及に努めている非営利の団体

★申請期間: 2011年10月1日から31日(消印可能)

★申込み方法: 申請書類はホームページより印刷し、必要事項を記入し、添付書類を同封の上、下記住所にお申し込みください。

★添付書類: 団体の10年度を含む過去2年間の活動、会計報告書、及び次年度事業計画書。

4.

次のうち助成金を申請できるのはどれか。

   夜の時間に行う野球そのほかの試合を「ナイター」と言っている。「デーゲーム」に対して「ナイトゲーム」といういい方も最近よく聞くが、「試合」のことを平気で「ゲーム」というようになったのは比較的最近のことではなかろうか。それまでは「ゲーム」というと子供の遊びというニュアンスが強かった。だから、真剣勝負の気合で臨む試合に対して「ゲーム」という言葉を使うのは抵抗があったことだろう。

5.

「ゲーム」という言葉について、筆者はどう考えているか。

   今年も中学合唱コンクールの模様が放映される時期となった。若い出場者たちのひたむきで気持ちのこもった歌声は、聴く者の心を素直に感動させる。合唱には、オーケストラやバンドなどの演奏とは違った魅力がある。まず合唱では、自分の声が楽器になる。同じ音色のものは二つとしてない楽器だ。そんな個性豊かな楽器たちは、ともすればバラバラになりがちだが、それが一つになった時に生まれるハーモニーには、何物にも代えがたい美しさがある。中学生という多感な年頃に、多様な個性を持つ生徒たちが力を合わせ、時にぶつかり合いながら、練習に励んでき。そこにはどんなドラマがあっただろう。そして、今年はどんなハーモニーを私たちに聞かせてくれるのだろ、今から期待に胸が膨らむのである。

6.

筆者は合唱の魅力をどのように考えているか。

   限られた時間や財産ではすべての目標を達成できないとすると、何かを行うときに犠牲になっているのは、突き詰めてみれば、それによって実現できなくなる別の目標なのです。お金や時間はこうした犠牲を計る上での大切な目標ではありますが、それだけでは判断が不正確になる恐れがあります。一つのことを実行する前に、それを行う替わりに何ができなくなり何が手にいらなくなるかをきちんと考える。そうした犠牲を払ってもなお実行する価値のあることだと判断したならば実行する。経済的な行動とは、結局はそういうことです。

7.

そういうこととは、どういうことか。

   援助することは簡単そうで、案外難しい。特に緊急を要する援助は判断が難しい。人が倒れている、といっても横になっているだけかもしれない。野に火の手が上がっている、といっても焼畑かもしれない。 その時、どう判断するか。

   大きな要因となるのは周りの人の判断や行動である。その行動をみて、自分も判断する。しかし、その人だって確信があるわけではない。やはり周りをみて行動しようとする。お互い、相手の行動をみていて動かない。誰も動かないので、動かないことが基準となって、緊急性はないという判断が働く。つまり援助丘勲がをされない。これを援助行動の相互抑制効果という。

8.

援助行動がなされないのはなぜか。

お知らせ

   東西市では大災害発生時の緊急避難場所の地図を作成致しました。避難場所は各小学校・中学校を中心としております。地域の方がどの学校に避難すればいいかわかりやすいように色分けされています。避難場所には水及び保存用食料、宿泊用テントなどの準備があります。災害時には医療サービス・炊き出しサービスなども行われます。また、ご家族の安否確認も行われます。尚、各ご家庭への配布は8月末の予定です。①これを機会に地図を元に災害時にどうするかをご家族で話し合ってください。

9.

これを機会にとはどんな機会か。

   外向的、内向的という言葉がある。顔からもある程度それがわかる。その印象は、顔のどこから感じられるのであろうか。

   まず、顔の全体が、特に目と(まゆ)が内側に寄っていると内向的に見える。内向的という言葉のもともとの意味は、気持ちが自分の内側ばかりに向かっていることである。顔の目や眉などのパーツが内側に寄っていることとは、何ら関係ないはずである。

   ところが、考えごとをするときは、自然と顔が内側に寄る。()(かん)にもシワが寄る。それは、顔を内側に寄せて自分の環境をせばめ、そのなかで深く物ごとを考えようとする姿勢である。

10.

どうして顔から性格を判断することができるのか。

   話しかけるタイミングの悪い人が増えた。彼らは呼吸が上手(うま)くつかめないのである。私は、これはネット社会の影響だろうと考えている。

   電子メールは便利である。メールのお(かげ)でビジネス関連の時間、特に伝達事項にかける時間が随分短縮(ずいぶんたんしゅく)された。こちらは、時間の余裕のある時にメールを書けばよい。相手も時間の余裕のあるときに読めばよい。自分の都合、相手の都合、双方(そうほう)に利益があるのである。

   これを繰り返しているぶんには、相手の都合を考えなくてもよいのである。自分の都合のいい時に「伝達」が済んでしまう。ということは、相手の様子を読むトレーニングを()まなくなる。相手の呼吸に合わせるという感覚がなくなっていくのである。

(竹内一郎「人は見た目が9割 」新潮社)

   女性の誇りはいかに質の高い愛をもらったか、いかにたくさん愛をもらったか、ということです女性はいつの時代も愛されることに命をかけています。世界中の女性がそう思って生きているのです。ほとんど例外はありません。キレイになりたい、という女心は、愛されたいがゆえの願望です。キレイになりたくない、などと思う女性は、百人に一人いるかいないかという確率です。かわいい自分になってたくさんの男性を引き寄せ、その中から質の高い男性を選ぼうとするのが女性というものです。それが女性の戦略です。

(岩月謙司「女は男のどこを見ているか」筑摩書房)

12.

それ」は何を指しているか。

問題2 次の(1)から(5)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   人はなぜ歴史を学ぶのか、直接役に立つわけでもない、過ぎさった時代のことを、なぜ知りたがるのか。ずいぶんと素朴な問いですが、こう聞かれてすぐに何らかの答えを言える人は、そう多くはないのではないでしょうか。

   本屋に行ってみると、歴史関係の本はたくさんあふれています。しかし、あたりまえのような話ですが、それらの歴史の本は現代の人間が書いたものだ、ということを最初に述べておきましょう。私たちは、①歴史は歴史であって現代のものではない、と考えがちです。たしかに、古墳(注1から出た石器(注2)とか、数百年前の古文書とかは、現代のものではありません。しかし、私たちが歴史と呼んでいるのは、そうした史料そのものではなくて、それを材料にして現代の人間が書いたもののほうなのです。石器や古墳は、②そのままではただの石のかけら、地面のでこぼこにすぎません。江戸時代にも石器はみつかっていましたが、多くの人は神仏や(てん)()のつくったものとみなして、歴史とは結びつけませんでした。史料そのものではなく、それを現代の人間が与えた意味が、「歴史」になるのです。

   つまり、③歴史とは、現代のものなのです。そしてそれは、現代に生きる人間によって書かれ、現代の必要にしたがって受け入れられてゆきます。

(注1)古墳:古代の墓

(注2)石器:古代に石で作られた道具

1.

歴史は歴史であって現代のものではないと考える人が多い理由は何か。

2.

そのままではとあるが、どういうことか。

3.

歴史とは、現代のものなのですとあるが、どういうことか。

   威張るのはよくないと思っている人が多い。しかし、威張るとは自分の役割に忠実になることである。そして役割に忠実になるとは、自分の権限と責任を自覚し、それを打ち出す勇気をもつということである。たとえばスチュワーデスが「お客さま、お煙草はサインが消えるまでお待ちいただけないでしょうか」というのは自分の責任に忠実な瞬間である。出すぎたことでもないし、生意気をいっているわけでもない。教授が学生に「レポートは事務室に提出のこと。拙宅に郵送しても採点しない」というのは教師の①権限を発揮しているわけで、権威主義とか押しつけというわけではない。

   自分の役割を明確に打ち出さないから後で後悔したり、人に無視されたり、なめられたりするのである。組織とは役割の束である。各自が自分の役割に忠実になるから組織はスムーズに動くのである。②遠慮は無用とはこのことである。ところが給料は役割に払われていることの自覚が足りない人がいる。いつもニコニコして人の和を保っている好人物であるという理由で給料をもらっているわけではない。権限と責任を発揮するという契約を果たすからこそ給料をもらっている。つまり給料をもらうには気合がかかっている必要がある。これを私は威張ることをためらうことなかれと少し極端に表現してみたのである。

1.

筆者が言う①権限を発揮している例としてふさわしいものはどれか。

2.

筆者は、何に対して②遠慮は無用だと言っているか。

3.

筆者の考えと合っているものはどれか。

   私は、世界初、日本初、業界初、市場初などとついた商品が出るとワクワクするというミーハー(注)だ。電卓が小型化、薄型化を競いはじめたころ、名刺サイズで厚さが5ミリメートルくらいのが初めて発売されたときには、結構な値段にもかかわらず飛びついてしまった。

   数字に弱いにもかかわらず、仕事で電卓を使うことが多かった私にとって、電卓をいつも身につけることができる名刺サイズは、①大きな福音に思えだ。しかも、出はじめの商品であるだけに、同僚たちに自慢ができるというミーハー心もくすぐられたからでもある。

   しかし、買ってしばらくは定期入れと一緒に持ち歩いていたが、1カ月もしないうちに元の電卓を使うようになり、カード電卓は机の引き出しで(ほこり)をかぶってしまうようになった。②それは、名刺サイズにするためにキーを小さくており、しかもその操作感も頼りないために使いにくかったからである。また、胸ポケットなどに入れると、本体がねじれるため接触不良をおこし、故障したりもした。そういったことがあったため、その後、電卓が薄型化を競い合い、キーの突起がないフラットなものまで出てきたが、さすがにミーハーの私でも飛びつくことはなかった。もちろん、名刺入れに入るというカード電卓のよさはあるが、ある意味では非常用であり、指の大きさや器用さから言えば、ものには「適度な」大きさがあることを学んでのである。

(注)ミーハー: 程度の低いことに熱中しやすく、流行に左右されやすい人

1.

筆者には、なぜ①大きな福音だと思えたのか。

2.

それは何を指しているか。

3.

名刺サイズのカード電卓を使ったことで、筆者がわかったことは何か。

  60年ほど前、児童心理学者シャーロット・ビューラーは、子どもが自分にできるようになった力を用いることに喜びを見出し、その力によって様々なことを発見し、育つことの重要性を指摘しました。彼女はこれを「機能の喜び」と名づけていますが、自分の力(機能)を使うこと自体が子どもにとって喜びであり、それによって学び、育つという、人間の発達の本質をいい(注)得て妙だと思います。

   代は、この「機能の喜び」がとかく無視されているのではないでしょうか。親は「良育」にせっかちなあまり、子どもが熱中していることに我慢できないようです。遠回りにも時間の無駄にもみえるのでしょう。そのため、自分の考える①「よかれ」の計画路線に子どもを歩ませようとします。(中略)

 「機能の喜び」を味わう機会の減少は、自分が学ぶ力をもっていることについて知る体験を子どもから奪うことでもあります。同時に、子どもの自己効力感を育てる機会を奪っています。日本の子どもたちは、ある程度の能力をもっていても自信をもてない傾向が強いのですが。自力達成の機会の少なさも一因でしょ、親の過剰な教育熱がかえって、子どもが自ら育つことを疎外してしまっているのです。その意味でも、子どもの発達権」の保障は急務です。

(注)いい得て妙:実にうまく言い表している

1.

①「よかれ」の計画路線とはどういう意味か。

2.

筆者は、現代の親にはどのような特徴があると述べているか。

3.

ここで言う、②子どもの「発達権」の保障とはどういうことか。

   仮にあなたが知りあいから、エチオピアで飢餓に苦しむ難民救済のための募金に協力してくれと頼まれたとしよう。はじめから断ってしまえば、多少のうしろめたさは残るもののそれで一応、①事態は収まる。しかし、もし協力を表明したとすると、あなたは、募金箱に百円入れても、千円入れても、一万円入れても「なぜもっと出せないのか」と言われるかもしれないという、「つらい」立場に立たされることになる。

  (中略)先進国が今ある繁栄を獲得した要因となった種々の経済活動は、地球という、人類全体が共有すべき有限の資源を消費した結果であるという視点もありうる。そう考えるなら、南北の経済格差や南の国の飢餓の宿題は、その共有資源を消費した代償として得られた経済活動の果実の偏在に起因するものであり、単に、ある特定の地域の問題ではありえないという議論が妥当性を持つことになる、資源の消費に関しては最大の「貢献国」のひとつである日本の国民としては、自分だけ高い生活水準をエンジョイしつつ、世界に蔓延する飢餓は自分の問題ではないとは言いきれない。

   ②ボランティアが経験するこのような「つらさ」は、結局、自分ですすんでとった行動の結果として分自身が苦しい立場に立たされるという、一種のパラドックスに根ざすものである。

                             (金子郁容「ボランティアもうひとつの情懶社会」岩波書店による)

1.

事態は収まるとは、具体的にはどういうことか。

2.

筆者の考えによると、南北の経済格差や飢餓の問題を引き起こした要因は何か。

3.

ボランティア経験するこのような「つらさ」とは、どのようなものか。

   ほんとうに悲しいときは言葉にできないぐらい悲しいといいます。ですから、小説の中で「悲しい」と書いてしまうと、ほんとうの悲しみは(えが)ききれない。言葉が壁になって、その先に①心をはばたかせることができなくなるのです。それはほんとうに悲しくないことなのです。人間が悲しいと思ったときに心の中がどうなっているのかということは、ほんとうは言葉では表現できないものです。けれども、それを物語という(うつわ)を使って言ようせん葉で表現しようとして(ちょう)(せん)し続けているのが小説なのです。「主題は何でしょう、二十字以内で答えなさい」というようなテストがあったとして、その二十字がまず浮かんでくるのであれば、それは②小説として書かれる必要性を持っていないと思います。ですから、「テーマさえしっかりしていれば、いい小説が書ける」というのは(げん)(そう)です。テーマは後から読んだ人が勝手にそれぞれ感じたり、文芸評論家の方が論じてくださるものであって、③自ら書いた本人がプラカードに書いて(かか)()つものではないと考えております。

1.

心をはばたかせることができなくなると筆者が考えるのはなぜか。

2.

小説として書かれる必要性を持っていないとはどういうことか。

3.

自ら書いた本人がプラカードに書いて(かか)()つものではないとはどういうことか。

   日本では羊の毛刈りは羊毛を採るというより観光の目玉になっていることが多い。 刈るところを見せたり刈らせてもらったりする。同様に海外では各地で羊の毛刈り競争が行われている。このような行事ではなく仕事として羊の毛を刈るのは重労働だ。羊は 35~40 キロもするし、じっとしていてくれない。バリカンが滑って傷つけるとそこからバイ菌が入って病気になるどこある。また、羊を押さえて刈っていくには技術が必要だから養成学校もあるそうだ。熟練した職人は 1 頭を 1 分で刈るとができ1日に300頭も刈るそうだ。しかし腰痛になる人も多い。料金は 1 頭 500 円ぐらいだからかなり大金が稼げる。そうはいっても厳しい仕事だし季節性もあるから年々なり手が減っている。

   この羊の毛刈り作業を圧倒的に楽にさせる方法が生まれた。日本のバイオ技術が使われている。毛刈りの時期の1ヶ月前に注射をして体に網を被せておく。網は毛が途中で落ちるのを防ぐために使われる。当日服を脱がせるように網を剥ぎ取ると、一緒に毛がついてくる。バリカンで刈ったのと比べると完全に丸裸という感じで全ての毛が採れる。その間たったの3秒だ。だから羊にも優しい技術と言える。今のところ注射の副作用がないそうだから広まる可能性が高い。

1.

バりカンを使った羊の毛刈りの説明に当てはまらないのはどれか。

2.

バイオ技術を使ったやり方の特徴はどれか。

3.

バイオ技術のおかげでないことはどれか。

   戦前までは、健康ということは病気をしないことでした。腸チフス、赤痢などの急性伝染病や、肺結核、脚気など慢性疾患が多かった時代には、このような病気の治療と予防がまず大切で、そういう病気にかからないことで健康が意識されていました。しかし戦後、病気の様相も変り、人々の意識も変化して、健康の概念もより幅広く積極的な意味になってきました。

   今日もっとも多くの人々から支持されている「健康」の定義は、次のようなものです。すなわち国際連合の部局の一つに、世界保健機関(WHO、World Health Organization)という機関があります。WHOの「国際疾患分類」はわが国の行政にも採用され、日々の医療や医療統計に役立っています。このWHOは次のように「健康」を定義しています。

  「健康とは、単に病気が存在しないというだけではなくて、身体的・精神的ならびに社会的に充分に良好な状態をいう」。

   つまり健康を身体と精神、さらに社会的な面の三つに分けて、それぞれの要素を重視した概念を提唱しています。この定義は、人間が身体的のみでなく、精神的ならびに社会的存在であることをよく理解した、すぐれた表現であるといえるでしょう。

(吉川政己『老いと健康』岩波書店による)

1.

戦前における健康な状態とは、どのような状態を指すか。

2.

戦前と戦後で健康の定義が変化したのには、どんな背景があるか。

3.

筆者は、なぜWHOの「健康」の定義がすぐれた表現であると考えるか。

   以前、花見をしているときに「桜の花は本当にきれいな正五角形(注1) だね」と言ったら、風情のない人だと笑われたことがあった。確かに、桜の花びらには微妙な色合いや形、そして香りに加えて、散りゆく美しさがある。花を()でる和歌や俳句は数限りないが、そのなかに「正五角形」という言葉が使われたことはおそらく一度もないであろう。科学者特有の美意識は、風流とはかなり異質なものなのだと悟った。

   科学において本質以外を切り捨てるためには、大胆な抽象化と理想化が必要である。桜の花びらのたくさんの特徴の中から、「正五角形」という形だけを取り出すこと。これが抽象化である。実際に数学的な意味で安全な正五角形を示す花びらは少ないだろうが、そこにはあまりこだわらない。これが理想化である。

   自然界で正五角形のような対称性を示すためには、必ず規則的な法則があるはずである。花の場合、品種によって花弁(かべん)(注2) の回転対称性が遺伝子で決定されていることは間違いないから、うまくこの遺伝子を突き止められれば、花の形を決める普遍的な法則が見つかるに違いない。このように、抽象化と理想化によって自然現象は単純に整理でき、普遍的な法則を見つける助けになる。

(注1)正五角形:五つの辺の長さが等しい五角形

(注2)花弁(かべん):花びら

1.

筆者は、自分が笑われた原因はどこにあると考えているか。

2.

ここでの理想化とは何か。

3.

筆者の考えによると、花の場合、抽象化と理想化によって何が期待されるか。

問題3 次の文章を読んで、質問に答えなさい。答えは、1・2・3・4から最もよいものを一つえらびなさい。

   子どものときから、 忘れてはいけない、 忘れてはいけない、 と教えられ、 忘れたと言っては(しか)られてきた。 そのせいもあって、 忘れることに恐怖心を抱き続けている。 忘れることは悪いことと決めてしまっている。

   学校が忘れるな、 よく覚えろ、と命じるのはそれなりの理由がある。教室では知識を与える。知識を増やすのを目標にする。せっかく与えたものを片端(かたはし)から捨ててしまっては困る。よく覚えておけ。 覚えているかどうか時々試験をして調べる。 覚えていなければ減点(げんてん)して警告(けいこく)する。点はいいほうがいいに決まっているから、 みんな知らず知らずのうちに、 忘れるのをこわがるようになる。

   教育程度が高くなればなるほど、 そして、頭がいいと言われれば言われるほど知識をたくさん持っている。つまり、 忘れないでいるものが多い。頭の優秀さは、 記憶力の優秀さとしばしば同じ意味を持っている。

   ここで、われわれの頭をどう考えるかが問題である。

   ①これまでの教育では、 人間の頭脳を倉庫のようなものだと見てきた。知識をどんどん蓄積(ちくせき)する。倉庫は大きければ大きいほどよろしい。中にたくさん詰まっていればいるほど結構だということになる。

   ②倉庫としての頭にとっては、 忘却(ぼうきゃく)は敵である。 ところが、 こういう人間の頭脳にとっておそるべき敵が現れた。 コンピューターである。 これが倉庫としてはすばらしい能力を持っている。 いったん入れたものは決して失わない。 必要な時には、 さっと引きだすことができる。 整理も完全である。

   コンピューターの出現(しゅつげん)、 普及にともなって、 人間の頭を倉庫として使うことに疑問がわいてきた。 コンピューター人間を育てていたのでは、 本物のコンピューターにかなうわけがない。

   そこで、 ようやく人間の創造性(そうぞうせい)が問題になってきた。コンピューターのできないことをしなくては、 というのである。

   人間の頭はこれからも、 一部は倉庫の役を続けなければならないだろうが、 それだけではいけない。新しいことを考え出す工場でなくてはならない。 倉庫なら、 入れたものを紛失(ふんしつ)しないようにしておけばいいが、 ものを作り出すには、そういう保存保管(ほぞんほかん)の能力だけでは仕方ない。

   第一、 工場に余計なものが入っていては作業能率が悪い。 余計(よけい)なものは処分(しょぶん)して広々としたスペースをとる必要がある。 そうかと言って、全てのものを捨ててしまっては仕事にならない。③整理が大事になる

   倉庫にも整理は欠かせないが、 それはものを順序よく並べる整理である。それに対して、 工場内の整理は、 作業のじゃまになるものを取り除く整理である。 この工場の整理に相当するのが忘却(ぼうきゃく)である。 人間の頭を倉庫としてみれば、 危険視(きけんし)される忘却だが、 工場として能率(のうりつ)を良くしようと考えれば、 どんどん忘れてやらなくてはいけない。

   そのことが今の人間にはわかっていない。 それで、 工場の中を倉庫のようにして喜んでいる人が現れる。 それでは、 工場としても倉庫としても、 両方ともうまく機能しない頭になりかねない。 コンピューターには、 こういう忘却ができないのである。 だから、 コンピューターには倉庫として機能させ、 人間の頭は、 知的工場として働かせることに重点を置くのが、 これからの方向でなくてはならない。

( 外山滋比古「『思考の整理学』 筑摩書房による)

1.

①「 これまでの教育」 とあるが、 どのような教育か。

2.

②「 倉庫としての頭」 とあるが、 どういうことか。  

3.

③「 整理が大事になる」 とあるが、 どういうことか。

4.

この文章で筆者が言いたいことは何か。

   純粋な自分に強い(あこが)れを覚える現代の若者たちは、かえって自分を見失い、自己肯定感を損なうという事態におちいっている。そのため、人間関係に対する依存度がかつてよりも格段に高まっている。しかも、自分の本質を生まれもった固有のものと感じているため、付きあう相手もそれと合致した人でなければならないと考えるようになっている。こうして、互いの関係も狭い範囲で固定化される傾向にある。ところが、特定の関係だけに過剰に期待をかけすぎると、それは逆に息苦しいものともなる。

   さらに、自分の純粋さを脱社会的に求めるメンタリティは、そのまなざし(注1を自分の内へと向ける傾向が強いため、他人と共有できる部分がどんどん減っていき、欲求の対象や価値観もおのずと多様化してくる。ある似かよった傾向を示す若者たちの一群をさして、かつては「○○族」のような(くく)り方(注2)をすることが可能だったが、昨今ではそこまでの強い同質性が見られなくなり、「○○系」といった緩やかな(くく)り方しかできなくなっている。その結果、狭く固定化された人間関係の内部においてすら、ものごとの判断をめぐって相手と①衝突する可能性が高くなっている

   多くの人びとの関心が似かよっており、ほぼ同じ方向を見ていた時代なら、たとえ各人が自由にふるまったとしても、そこには重なり合う部分が少なくなかった。しかし、それぞれが内閉的に自分らしさを追求するようになると、互いの価値観や欲求の内実も多様化する。(中略)

   このように、純粋な自分に対する(あこが)れはかつて以上に高まっているのに、それをサポートするための人間関係を維持する条件のほうはかつて以上に厳しくなっている。互いの理解可能性を素朴(そぼく)に信じて、それを前提に人間関係を築いていくことはもはやできない。「分かり合えない感」と若者たちが表現するように、むしろ理解不可能性を前提とした人間関係を築いていく技術の必要性が高まっている。彼らは、じゅうぶんには分かりあえないかもしれないことを、じゅうぶんに分かりあっている。「優しい関係」とは、このようなアイロニカルな(注3状況を乗り切るために、互いの対立の回避を最優先の課題として、彼らが身につけた②人間関係のテクニックである。(中略)

   大人たちの目には、現在の若者たちの人間関係が、コミュニケーション能力の不足から希薄化(注4しているように映るかもしれない。しかし、実態はむしろ逆であって、かつてより葛藤(かっとう)(注5)火種(ひだね)が多く含まれるようになった人間関係をスムーズに営んでいくために、高度なコミュニケーション能力を駆使して絶妙な(注6)距離感覚をそこに作り出そうとしている。

(土井隆義 『友だち地獄-「空気を読む」世代のサバイバル』筑摩書房による)

(注1)まなざし:視線

(住2)(くく)り方:まとめ方

(注3)アイロニカルな:皮肉な

(注4)希薄化:薄くなること

(注5)葛藤(かっとう)火種(ひだね):ここでは、人と人との対立の原因

(注6)絶妙な:とても上手で、すぐれていること

1.

現代の若者の特徴として、筆者があげているものはどれか。

2.

衝突する可能性が高くなっているのはなぜか。

3.

筆者は、現代に必要な②人間関係のテクニックはどのようなものだと述べているか。

4.

筆者の述べていることと合っているものはどれか。

   さて①現代を生きる人間が立ち向かうべきは、いったいどんな「自然」なのだろう。人間を生み、育てた原風景は間違いなくあの懐かしい生物的自然だ。この自然に人間は何百万年も生きてきた。けれどもその生物的自然は、残念ながらこの地球にはもう存在しない。その再生も不可能だ(ただし人間という生物がこの地上からいなくなれば、まもなく(ほう)(じょう)な生物的自然は再生してくるだろうが)。とすれば②人間的自然しかない。好むと好まざるとにかかわらず、人間は自分自身が創り上げた自然の中でしか生きていけない。けれどもそれは、人を現実から逃避させる情報的自然でも、限りある化石燃料に依存した工業的自然でもない。僕たちの相手は、結局農業的自然しかなぃと覚悟すべきだ。

   人間は自然(環境)の刺激により育つ。与えられる刺激は多様な程良い。何しろ人間のカラダには、何十億年という時間をかけて培われた莫大な潜在能力があるのだから。それを引き出すには、それだけたくさんの刺激が必要なはずだ。

   僕は人間が育つには、周りに色々な人間がいて、色々な事物が渦巻いていることが大切だと思っている。特定の人しかいず、特定の物しかなく、特定の事しか起きない世界は、③人間にとって貧しい

   でも今のこの国ではどこに行っても、④町や村はある特定の機能を押し付けられている。例えば僕の住む東京都下は、都心で働く人間のねぐらを提供するよう押し付けられている。

   農村部でも同じだ。そこでは大都市向けの農作物を作ることがまず要求される。しかもカボチャしか、大根しか作らないというようにはっきりと分業し合っている。そういう所で育つ子供たちは、白菜しか見たことがない、豚の鳴き声しか聞いたことがないという具合に、学ぶことが少ししかない。

   地域に与えられた特定の役割を打破することこそ、「地方分権」だと僕は思う。分権とは政治的権限が中央から地方に委譲されることだが、そのことは同時に、これまで中央や国家を支えるためだけだった地方が、何はともあれ自分自身を支えるためのものとして脱皮する、そんなものでなければ意味がない。ともあれ、「混在型の世界」でこそ人はよく育つと、僕は言いたいのである。

1.

同筆者は、①現代を生きる人間が立ち向かうべきは、いったいどんな「自然」だと考えているか。

2.

人間的自然とは、ここではどういうことか。

3.

筆者が考える③人間にとって貧しいとは、どういう意味か。

4.

町や村はある牲定の機熊を押し付けられているとあるが、それはなぜか。

   学生が農村調査などに出かけると、農家の人たちは、学生さんがきた、というのでしばしば丁重に扱ってくれたりする。しかし、そういうときが、じつはいちばん①危険なのだ。丁重に扱われることによって、学生はじぶんたちのほうがえらいのだ、という錯覚におちいる。そしてその錯覚のゆえに、教えを乞う、という謙虚なこころをいつのまにか失ってしまう。学生だって、大学教授だって、ほんとうはちっともえらくなんぞありはしない。知らないことだらけなのである。知らないからこそ、ひとに会って教えてもらおうとしているのである。肩書きがどうあろうと、教えを乞うているかぎりは学ぶ立場にいる。その学ぼうとする謙虚なこころが、ひとに話をきくときの基本的心がまえでなげればならぬ。相手が農民であろうと、タバコ屋のおばあさんであろうと、取材する相手は、大げさにいえばわれわれにとっての教師なのだ。ひとにものをきくときには、いささかなりとも尊大な気持をもってはいけない。尊大な取材をする人は、けっして真実の情報を手にいれることもできないだろうし、そういう人にはおよそ知的な進歩も期待できない。

   このことはジャーナリストにとってもあてはまる。新聞社の名刺を出せば、いわゆるコワもて、というやつで、どこにでもかなり自由に出入りできる。そのことから、ジャーナリストは不当な自負心をもち、尊大になりがちだ。しかし、それはジャーナリにとっての最大の②ワナなのである。そのワナにひっかかったがさいご、そういう人物は③けつして大成できないと知るべきであろう。

   じっさい、わたしはこれまでの体験のなかで、大記者、名記者といわれる人たちにたくさん会ったが、そういう人はひとりの例外もなく、柔和で、謙虚な人びとであった。肩ひじ張って眼光するどい――そういうタイプの人はテレビの記者ものには登場するがそれはけっしてじつさいの名記者のイメージではないのである。ほんとうの名記者は、しずかで、たのしい人物たちなのである。その人がらが、すばらしい取材能力を決定している、といってもさしつかえないだろう。かれらはひとに話をきくにあたっての基本的な作法、つまり、謙虚さを人がらのなかにそなえているのである。

   ひとに教えを乞うという態度――それは当然、感謝の念とつながってゆく。そして、なんらかのかたちで感謝のこころをあらわす、ということが、しぜんとものをきく作法のなかに反映されてゆくのである。(中略)話をきいたあとで、たとえハガキ一本であろうと、こころがこもっていればそれでもじゅうぶんだ。教えをうけたことにたいする感謝――そのこころを素直にもてるかもてないか、いささか道徳的な話になってしまったが、そのこころ構えがものをきく作法の基本条件だ、とわたしはかんがえている。

(加藤秀俊 『取材学 探求の技法』中公新書による)

1.

筆者が①危険だと感じるのはどのようなことか。

2.

ワナとはどういう意味か。

3.

けっして大成できないのはなぜか。

4.

筆者が考える大記者、名記者とはどんな人物か。

   眼が意味ある形を見ようとするあまり、無意味な形にまで意味を与える例をこれまで見てきた。

   ところが、眼はまったく存在しないものを「見る」力があるのだ。といっても超自然な能力のことではなく、だれの眼にも備わっている力なのである。

    ①図を見てみよう。二つの図とも、中央にははっきりとした輪郭をもつ三角形が見えるはずだ。ところが、目を近づけて見てみると三角形の輪郭などまったく描かれていないことがわかる。客観的に存在しない輪郭を、(1)眼が主観的に見てしまっているのである。そこで、このようにして見える輪郭を、心理学では、「(2)主観的輪郭」と呼ぶ。

   再び①図を見てみよう。

   上図では、主観的輪郭が描く三角形が背景の白よりもいっそう白く見え、下図ではいっそう黒く見える。実際に描かれている図形よりも、主観的輪郭が描く図形方が、くっきり見えるのである。そして、後者は前者の上にかぶさっているようにも見える。

   主観的輪郭が描く図形は、三角形など直線的なものばかりでなく、②図のように曲線が形づくる図形である場合もある。このようなときにも、①図に見た主観的輪郭の特徴は共通である。

   なぜ客観的には存在しない主観的輪郭が見えるのか。イタリアの心理学者カニッツァーによれば、その理由はおおむね次のように説明される。

   眼は、いつも意味あるより単純な形を求めている。もし眼前に複雑で意味を見つけにくいものが見えているとき、眼は不安定になる。だが、それがある形によって隠されているために無意味になっているのであれば、その隠しているものの形を見定めることにより、眼は安定するのである。その形が主観的輪郭が描く形なのである。

   この説明は、主観的輪郭線の特徴をもよく説明してくれる。主観的輪郭が描く図形が他を圧してくっきりと見えるのは、主観を補強して、この描かれていない形を確かなものとして見ようとするためである。背景となる図形にかぶさって見えるのは、(3)そのことが成立条件なのだから当然のことである。

   存在しないものを見る。だから、この主観的輪郭は錯視のひとつとされている。しかし、現実空間でも、実際にはないものを見てしまうということは、あり得ることである。やはり、主観的輪郭は、眼の力のひとつの現われではないのだろうか。

1.

(1)眼が主観的に見るとあるが、ここではどういうことか。

2.

(2)主観的輪郭の特徴として文中にないのはどれか。

3.

(3)そのこととは何か。

4.

この文章が、述べようとしていることは次のどれか。

   チンパンジーは、 さまざまなあいさつの仕方を持っている。 おじぎ。握手、 抱擁(ほうよう)、 ひれ()す、 肩を(たた)く、 軽く相手にさわる。 それにキスさえする。 ゴリラは深いおじぎをするが、 その他のあいさつ行動は貧弱(ひんじゃく)である。なぜ ①チンパンジーにだけあいさつ行動が豊富なのか。

   その理由は彼らの特殊な社会構造に求められる。チンパンジーの集団は、 ニホンザル(注1)の群れと同じく、 複数の(おす)と複数の(めす)による20 〜 100頭の集団である。‚ニホンザルの群れは閉鎖的(へいさてき)で、 青年以上の個体(こたい)()れから遠く離れて4、5日も行動したりすると、 群れに戻りにくくなる。特に(おす)は、 まず復帰(ふっき)できず、 よそ者とみなされて追い出されてしまう。ところが、 チンパンジー社会は、 メンバーの離合集散(りごうしゅうさん)が日常的に行われる社会で、 若い(おす)(めす)が仲良く旅行に出かけて行きた、 1か月もたってから帰ってくるといったこともある。そうしたとき、 帰ってきた連中(れんちゅう)は集団の仲間にあいさつをする。 そうすると、ごくスムーズに集団に入れてもらえる。

   このように、 時間的空間(くうかん)的に離れていたための距離感。 疎遠感(そえんかん)をあいさつによって消し去り、もとの社会関係を回復することができるのである。 チンパンジー社会では、 個体(こたい)の行動の自由度が大きく保障(ほしょう)されているが、 あいさつはそれを可能にするための行動なのである。

   このことは、 われわれ人間のあいさつ行動に照らしてみると、 よく理解できる。

なぜ、 いつ、 われわれはあいさつをするのか。

   ③それは、 日常的には、 相互に時間的空間的に離れている場合に限られている。2、  3日出張して職場に戻ったとき、 仲間にあいさつする。 あるいは、 家族の間でも夜寝る前に「 おやすみ」 と言い、 朝起きると「 おはよう」とあいさつする。 眠るという行為(こうい)は、 相互の認知空間(にんちくうかん)遮断(しゃだん)である。 つまり、 眠っている間は、 人と人の関係は()たれている。 どうやら、 人間関係というものは、 いかに深い間柄(あいだがら)でも、 わずか一夜の(へだ)たりがあると薄められてしまうものらしい。 あいさつという行動は、 薄められた関係をもとの濃度(のうど)還元(かんげん)する作用(さよう)を持つものなのだ。

   つまり、 あいさつは、 薄められた個体関係の間に、 相互の心の通い合うチャンネルを作る行為なのである。

(河合雅雄。 「 子どもと自然」 岩波書店による)

( 注1) ニホンザル: 日本特産種の(さる)

1.

①「 チンパンジーにだけあいさつ行動が豊富」 なのはなぜか。

2.

②「 ニホンザルの群れは閉鎖的」 とあるがどういうことか。

3.

③「 それ」 は何を指しているか。

4.

この文章からわかる「 あいさつ行動」 の機能(きのう)はどんなことか。

問題4 次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

A

   選挙権は一人一票。平等に与えられているはずだが、実際は人口の少ない地域の候補者が少ない票数で当選するのに対して、人口が多ければその倍以上取っても落選する。2008 年の選挙では人口の多い神奈川県(かながわけん)と少ない鳥取県(とっとりけん)では 4.868 倍もの格差があった。私の票も衆議院で 0.46 票、参議院て 0.23 票の価値しかない。このままでは私の意見はこの比率しか反映されない。早く格差を無くしてほしい。議員は地位が脅かされる選挙制度改革をしたくない。しかし最高裁判所で格差は憲法違反だという判決が出れば改革せざるを得ない。そこで、最高裁判所の裁判官の国民審査で格差を憲法違反ではないと考える裁判官を信任しない、つまり x をつけるという運動が生まれた。これを広めて世論を喚起し一票の格差を解消したいと思っている。

 

B

   国民は法の下に平等だから一票の格差は解消すべきものだろう。しかし、完全に平等になったら都会の人たちの意見を代表する議員ばかりになり、私たち人口が少ない地域に住んでいる者の意見は国政に反映されなくなってしまう。地方の疲弊が言われている。私の住む地域は子どもの学力テストで日本一と言われ持て(はや)されているが、成長した優秀な子ども達のほとんどが都会に行って帰ってこなない。沢山の税金や家計費を使って都会の繁栄のために子育てしているようなものだ。あげくの果てに国政でも隅に追いやられては、地方は益々活カを失ってしまう。選挙制度の改革は当然だが、格差解消だけでは真の平等は実現しない。地方の意見も吸い上げる新しい制度が必要だと思う。

1.

どうして選挙制度が変わると地位が脅かされるのか。

2.

両者の立場を表しているのはどれか。

3.

日本の現状を述べているのはどれか。

A

   昼間の明るい時間を有効利用するための「サマ-タイム(夏時間制度)」の導入に向けた関連法案の次期国会提出が確実視されている。サマータイムは日照時間が長い期間、時計の針を一時間進める仕組みだ。戦後導入された時期もあたが、労働時間が増加するなどの理由で廃止れた。今般、照明や冷房などの電力節約、つまり温暖化対策として再度提言された。さらに夕方の明るい時間帯のレジャー活動活性化によって約九千七百億円の経済効果、十万人の雇用創出につながるという。経済波及効果もさることながら、サマータイムは自然のサイクルに合った生活スタイルを考える契機ともなり、「アフタ一五」に家族や友人との付き合い、余暇活動など「潤いのある生活」を取り戻すこともできると期待されている。

B

   温暖化対策の一環としてサマータイム制度の導入が提言されている。豊かなライフスタイル、省エネ、経済波及効果など、その効果に期待が高まっている。しかし、サマータイムが身体のリズムや睡眠に悪影響を及ぼすことは、多くが指摘するところだ。ヨーロッパでは、時計の針を一時間進めたことで、睡眠時間が短くなり睡眠効率も低下するという調査報告がある。日本人の睡眠時間は年々減っており、欧米諸国の平均より一時間短い。しかも八0%の人が夜十時過ぎても起きている夜型社会だ。中高生では夏休みに就寝時間が遅くなり、新学期に起きられず不登校になるケースもある。不眠症に悩む高齢者も多い。夏冬の日照時間の差が大きい北半球の高緯度地域では効果もあるだろう。それをそのまま日本に当てはめることはできない。日本では現在四五人に一人が不眠などの問題を抱えており、うつ病に伴う不眠も多い。温暖化対策の視点も重要だが、健康への影響を考慮するべきだろう。

1.

サマータイムを導入することに関して、AとBのどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

2.

 サマータイム制度の導入について、Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

3.

サマータイム導入検討に当たって、AとBの筆者がそれぞれ重視しているものは何か。

 A大学が現在の春入学から秋入学に全面移行する方針を打ち出した。

   世界の主流は秋入学であり、春入学は日本を含め7カ国のみだという。世界の流れに合わせることで、留学生を増やし、大学の国際化を促進することが狙いである。また、3月の高校卒業から大学入学までの空白期間、いわゆる「ギャップターム」の間に社会経験が積めるとしている。

   だが、果たして、秋入学への移行が即ち留学生の増加、ひいては国際化に繋がるのだろうか、教育の質の向上を始め、優先すべき課題があるのではないだろうか。さらに、「ギャップターム」を有効活用するという構想は、理想論に過ぎないと感じる。社会に「ギャップターム」の受け皿が整わないうちは、所属先のない不安定さや径济的な負担を問題と捉える人が多いだろう。

B

 A大学が秋入学実施に向け本格的に動き出す方針を発表した。5年後を目途に国際基準である秋入学を導入し、海外との研究・教育の交流を活発化させる考えだ。

   その実現に向けてはいくつかの課題がある。一つは、秋入学した学生の卒業時期と新卒の定期採用の時期(4月)にズレが生じること、このズレが就職に不利になるという見方が強い。その解決のためには、秋入学.秋卒業の大学が増え、企業の採用方針が、春の一括採用から、春と秋の採用や通年採用に改められなければならない。それは一括採用.長期雇用といった日本型雇用システムの変更を意味する。

   そのため、A大学は、単独での秋入学移行ではなく他大学との連携を目指し、経済界との協議も始めている。

1.

AとBのどちらか一方でのみ触れられている情報はどれか。

2.

AとBは、それぞれ秋人学導入についてどのような立場をとっているか。

3.

日本で秋人学が広まるために必要なこととして、AにもBにも書かれていないことはどれか。