Đề thi luyện kỹ năng Đọc hiểu - JLPT N1

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124

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読解
問題1 次の文章を読んで、文章全体の内容を考えて、以下の中に入る最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   ある美術評論家の言ったことが心に残っている。「人間は早くから概念(がいねん)を与えられるとエネルギーが低いレベルに(おさ)えられてしまう。エネルギーがあふれるほどわき出るようにするためには概念崩(がいねんくず)しをしなければならない。つまり、子供に絵を()かせる場合に、 『マルかいて、眉毛(まゆげ)かいて、目鼻かいて』というような手順で、つまらない顔を描かせている先生が多いけれども、それではダメだ。顔というのは、その子供がどこへ鼻をつけようと目を描こうと、子供らしい表現であることが大事なのだ」というようなお話だった。

1.

概念崩(がいねんくず)とあるが、子供に絵を描かせるときの「概念崩し」とはどういうことか。

液晶画面(えきしょうがめん)で見るいわゆる電子ブックも、 今のところ紙で出来た本にとってかわるほどの勢いはない。 たしかに書籍(しょせき)の出版は、 世のデジタルな進歩だけでは追いつけないものを持っている。 書かれた中身だけが「 本」 ではないのだ。装丁(そうてい)はもちろん、 手に取ったときの感触(かんしょく)やにおい等のデジタルなものにない物理性や、 または目に見えないこだわりもそうだ。 一冊の本は紙で出来たひとつの表現なのだ。

しかし、 そう考えると逆に、 別に ①「 本」である必要のないものが本になって出回っている気がしないでもない。本屋で平積(ひらづ)みになった新刊を(なが)めていると、 表現である以上に紙で出来た商品に思えてしまう時が多いのだ。

( 近田谷大r僕の読書感想文」 国書刊行会による)

2.

①「 本」である必要のないものがとはどのような本のことか。

   もう40年以上も前のことだ。イタリアに行ってとてもびっくりした。フィレンツェからローマまで乗った電車が5時間以上も遅れたのだが、それに対してお詫びの放送もなければ、怒り出す乗客もいなかったのだ。そして、ローマを発つ時、駅の時計を見てもっと驚いた。向こうのホームの時計とこちらのホームの時計とが1時間近くも違っていたのである。その時の電車も時間どおりには出発しなかった。電車は時間どおりに動くものと思い込み、いつも時間に追われる生活をしていた私は、イタリア人のおおらかさに打たれた。これぐらいの余裕のある人生を、私も心がけたいものだ。

3.

上の文章によると、筆者のイタリアに対する感情はどれか。

   今年も中学合唱コンクールの模様が放映される時期となった。若い出場者たちのひたむきで気持ちのこもった歌声は、聴く者の心を素直に感動させる。合唱には、オーケストラやバンドなどの演奏とは違った魅力がある。まず合唱では、自分の声が楽器になる。同じ音色のものは二つとしてない楽器だ。そんな個性豊かな楽器たちは、ともすればバラバラになりがちだが、それが一つになった時に生まれるハーモニーには、何物にも代えがたい美しさがある。中学生という多感な年頃に、多様な個性を持つ生徒たちが力を合わせ、時にぶつかり合いながら、練習に励んでき。そこにはどんなドラマがあっただろう。そして、今年はどんなハーモニーを私たちに聞かせてくれるのだろ、今から期待に胸が膨らむのである。

4.

筆者は合唱の魅力をどのように考えているか。

   かつては〈制度〉といえば、ほとんど、国家(法的国家)、地方自治体、政党、結社、学校、会社、組合などといった、明確に実定化(注)され、法制化されたもののことしか、考えられなかった。もともとそのような制度は、私たち人間が集団生活を営み、その集団が大きくなりそこでの人間関係が複雑化し間接化するに応じて形づくられたものである。つまり、そうしたなかで社会生活が合理的に運営されていくためには、社会関係そのものが合理化され、客観的に示されねばならなかったのだ。

(注)実定化:人間が作り出した法として定めること

5.

筆者は、制度とはどのようなものだと言っているか。

   日本人は「()て前」と「本音(ほんね)」を使い分けると、よく言われる。しかし、国際社会の中で日本がそれをうまく活用しているかといえば、そうではない。自らの本音をきちんと意識できず、それを通すための政治力も発揮できず、ただアメリカ追随(ついずい)大勢(おおぜい)で日本の国益(こくえき)にかなうと思っている方向)に動いているのが実情だ。だから、アメリカの顔色を見て右往左往(うおうさおう)している。国際社会の場では、日本は自らの論理力のなさを露呈(ろてい)(注)していると言える。

国際関係の場合、「国際平和」などという道徳、倫理にかなう建て前以上に、各国の国益という本音が複雑に(から)(ごう)、国力による発言力の強さが大きくものを言うだけに、外交の場は単純に論理力だけで通用するわけではない。

   とはいえ、多くの国々を納得させるためには、論理力が大きな力を発揮するのは確かだ。日本の国際的な地位が、経済力に比べてあまりに低いのは、論理力の弱さにあるといっても、あながち間違いではないだろう。

                                         (樋口裕一 『頭の整理がヘタな人、うまい人』大和書房)

(注)露呈(ろてい):隠れているものが表れること

6.

どうして「日本は自らの論理力のなさを露呈(ろてい)していると言えるのか。

   「今やることをすぐやる」のは理想だが、やるべきことはつねに複数並行(へいこう)しているもの。優先順位を考える必要がある。つまり、やるべきことをリストアップし、それらに取り組む前にざっと段取(だんど)りを組み、スムーズかつスピーディーに進める(さく)を頭に入れておかなくてはならない。

   でないと、「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」と気持ちがあせるばかり。思いつくまま手をつけて効率を下げるどころか、何をどの順番ですべきかわからなくなり、何もせずに時間を無駄づかいすることにもなりかねない。

(斎藤茂太「グズをなおせば人生はうまくいく」大和書房)

7.

時間を無駄づかいすることにもなりかねない」のはなぜか。

   話しかけるタイミングの悪い人が増えた。彼らは呼吸が上手(うま)くつかめないのである。私は、これはネット社会の影響だろうと考えている。

   電子メールは便利である。メールのお(かげ)でビジネス関連の時間、特に伝達事項にかける時間が随分短縮(ずいぶんたんしゅく)された。こちらは、時間の余裕のある時にメールを書けばよい。相手も時間の余裕のあるときに読めばよい。自分の都合、相手の都合、双方(そうほう)に利益があるのである。

   これを繰り返しているぶんには、相手の都合を考えなくてもよいのである。自分の都合のいい時に「伝達」が済んでしまう。ということは、相手の様子を読むトレーニングを()まなくなる。相手の呼吸に合わせるという感覚がなくなっていくのである。

(竹内一郎「人は見た目が9割 」新潮社)

8.

筆者の考えとして正しいものはどれか。

問題2 次の(1)から(5)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

ある本に次のように書かれていた。

「このごろの若者で気に入らないことの一つは、とかく小さく固まりたがることだ。特定の仲間とだけつきあって、ややこしいことを避けたがる。

   これには、「他人に迷惑をかけない」という、奇妙な道徳が行きわたりすぎているのではないか。「他人に迷惑をかけない人間」というのを、やたらと持ちあげることに、ぼくは①おおいに不満なのである。元来、人間が入りみだれて暮らすのに、他人にまったく迷惑をかけてないなんて、とても信じられない。むしろ、迷惑をかけあうことこそ、人間の社会性と言えるぐらいだ。それに、社会的弱者にとって、この 『惑をかけるな』は②差別として作用することが多い。問題は、迷惑をかけていることに鈍感になるな、ということだろう。」(引用:森毅『ひとりで渡ればあぶなくない』ちくま文庫による)

   私も③「人に迷惑をかけてはいけない」と教えられてきた。実はこれは、互いに助け合って生活しているという前提があるからこそ言える言葉なのだ。人間関係が希薄な社会より感謝の気持ちを持ちながら迷惑をかけあえる社会のほうが、ずっと居心地がいい。

1.

何に対して①「おおいに不満なのである」と言っているのか。

2.

②「差別として作用する」例として、最も適当なものはどれか。

3.

この場合の③「人に迷惑をかけてはいけない」はどういう社会におけるものか。

   最近、脳波を利用しようとする研究の進歩が目覚ましい。BMI( ブレイン・マシン・インターフェース)という脳波と機械を接続させた装置も開発されている。BMI は脳神経が発王する微弱な脳波を測定し、解析し、その情報を電気信号に変換して機器に伝達する装置だ。具体的には、脳波で動く車椅予や光を見て電灯やエアコンをつける装置などで、医療や福祉の分野での期待が高まっている。

   BMI はアメリカやドイツで研究が進んでいるが、それらは主に脳波でロボットや装具を動かしたり体を刺激したりする装置である。研究の結果、失われた脳神経細胞も再生する可能性があることがわかってきた。そこで日本では外部装置の開発だけでなく、体の機能自体を回復させる BMI 装置の開発を進めてきた。この日本独自のアイディアは①脳波で装置を動かす。②装置を体に付けて同じ動作をする。③体から脳に「動いているよ」という信号が送られる。④脳が信号で刺激され脳自体が活性化する。この操り返しが脳を再生する。まだ実験段階だが効果は上がっている。早く実用化され、①夢が夢に留まらないようにしてほしいと切に願っている。

1.

夢が夢に留まらないとはこの場合何を示すか。

2.

どうして日本は脳自体を再生する研究を始めたのか。

3.

BMI の日本のアイディアは他の国の BMI とどこが違うか。

   交通信号の赤を見ると、 私たちは止まらなければなりません。 青を見ると、 進めという意味に理解します。もしそのときに、 赤信号が、 「 止まれ。」 という意味以外に何が私たちの感覚や感情を刺激するものを表すなら、 事故が起きてしまいます。 ですから、 信号に対しては、 否応(いやおう)なしに「 一か、ゼロか」 、 あるいは「 Aか非Aか」 というデジタルな(とら)え方をしなければなりません。 さもなければ秩序(ちつじょ)(みだ)れてしまいます。 このように、 日常生活においては、 ①コトバが信号化することは確かなことです。

   たとえば私が、「 コップをください」 と言ったときに、 皿が来たら困るわけですから、「 コップ」 という語はとにかくコップという物を指す記号であり、 「 皿」 という語は皿を指す記号であるわけです。 しかし同時に、 私たちは、経験的に ②そうではないコトバがあることを知っているのではないかと思うのです。

   つまり、 舞台で演じる人の表情や動作、 音楽とか絵画とかと同じように、 聞くたびに読むたびに、 そのつど新しい意味を与えられる、 そういうコトバのことです。 あるときは人のコトバに感動し、 またあるときは激しく傷つけられる。 こういう二度と味わえない体験を引き起こすコトバがある。 そこに込められた複雑な感情を私たちは、 そのコトバのイントネーションや声の調子などから感じ取ります。 これは非常に重要なことです。 文学や哲学の作品に、 私たちが体験の一回性を読み取るのは、 そういうコトバで書かれているからにほかならないのです。

( 丸山圭三郎『 フェティシズムと快楽』 紀伊國屋書店による)

1.

①「 コトバが信号化する」 とあるが、 どういうことか。

2.

②「 そうではないコトバ」 とは、何のことか。

3.

この文章で筆者が言いたいことはどういうことか。

   日本では休暇が一時期に集中しているので、旅行業界にとって繁忙期は約 100 日間しかない。宿泊や日帰り旅行の費用年間約 23 兆円のうち、 繁忙期に 20 兆円が使われているそうだ。繁忙期は旅行行者が一斉に移動するので渋滞するし、予約も取りにくい。行楽地に行っても人込みで却って疲れてしまうほどだ。宿泊代やツアー代などの費用も通常期に比べ2倍以上になることも珍しくない。だから休暇の平均化が可能なら旅行者にとっても喜ばしいし、旅行者の増加に結びつき受け入れ側に利益をもたらす。また、飲食・旅行業界は時期の偏りがありすぎるので正社員率が30 % に満たないが、これが上向く可能性もある。分散による経済的効果は計り知れないので、現在政府内で検討中だ。

   フランスは 1964 年から国内を 3 分割して学校の冬と春の休暇を1週間ずつずらした。それが交通渋滞の解消と観光施設経営の安定化に役立っているそうだ。日本では旅行繁忙期はほとんどが国民の祝日と重なっていて、親子一緒に休める貴重な長めの休日となっている。しかし、国民の祝日は記念日なのでこれを地域ごとに変えることに異議がある。また、子ども達の休暇を移行した場合も年休が取りにくい日本では休暇の分散にそれほど効果は上がらないだろう。どのように休日の平均化を進めるか今知恵が試されている。

1.

通常期と繁忙期の差がないのはどれか。 

2.

休日分散による経済効果とあまり関係ないのはどれか。

3.

日本とフランスの休暇について述べているのはどれか。

   何にしても、子どもは自分が生きたいように生きる。ある意味では、①それが親が子どもを立派に独り立ちさせたということになる。親が大学を選び、就職先を選び、結婚相手を選んで、新婚旅行にもついて行くという生き方を、あなたは好ましいと思うだろうか。

   それが極端な言い方だというなら、どの時点で子どもの選択を認めるのだろう。

   だんだんに、子どもが自分一人で決められるように仕向けていくというのが、ごくふつうの方法だと思う。勝ち負けでいえば、だんだんと②親が負け方を覚えていくということになるはずだ。負け方を覚えることによって、親は成長していく。

   少しずつでいい。子どもの意見を聞き入れ、子どもが自分で選択する範囲を広げていくということである。それが親の願いと離れていても、少しずつそれを受け入れていく。それが負け方を覚えるということになる。

   ③進学や就蔻問題でまだ衝突が続いているというのは、負け方がうまくないということになる。親が大人になっていないということでもある。上手に負けて、子どもを独り立ちに導くほうが大切なのだ。

1.

それが親が子どもを立派に独り立ちさせたということになると筆者が考えるのはなぜか。

2.

親が負け方を覚えていくとはどういうことか。

3.

進学や就朧問題でまだ衝突が続いていることを筆者はどう考えているか。

   川は、人生と自然との関わりを深く結びつける空間である。ひとが自分の人生のイメージを川の流れに重ね合わせる場といってもよく、ひとの人生を形づくっていく経験が貯蓄される場であるといってもよい。

   川のもつ変化の相は、それを体験する人間の経験の豊かさの諸相でもある。川は人びとにさまざまな経験を与え、人生を豊かにする可能性をもつ。

   人生を豊かにするということのなかに、川のもつ「流れ」がある。しかし、河川事業を行うとき、しばしばこの根本的な性格が見落とされる。

 「エジプトはナイルのたまもの」というように、川はまず恵みを与えてくれるものであるはずなのに、しばしば①河川事業を説明するパンフレットは、洪水の図から始まっている。特に都市の場合、洪水の原因はといえば、人間が土地を舗装し、地面に水が吸い込まれなくなったことなど、人為的な原因があるにもかかわらず、そのために起こる洪水の恐怖、リスクを先に置き、「自然の脅威」とか「牙をむく自然」とかといった自然を擬人化して敵対的な表現が用いられる。

1.

筆者は川と人生をどう考えているか。

2.

河川事業を説明するパンフレットは、洪水の図から始まっているのはなぜか。

3.

この文章の内容に最も近いものはどれか。

問題3 次の文章を読んで、質問に答えなさい。答えは、1・2・3・4から最もよいものを一つえらびなさい。

   眼が意味ある形を見ようとするあまり、無意味な形にまで意味を与える例をこれまで見てきた。

   ところが、眼はまったく存在しないものを「見る」力があるのだ。といっても超自然な能力のことではなく、だれの眼にも備わっている力なのである。

    ①図を見てみよう。二つの図とも、中央にははっきりとした輪郭をもつ三角形が見えるはずだ。ところが、目を近づけて見てみると三角形の輪郭などまったく描かれていないことがわかる。客観的に存在しない輪郭を、(1)眼が主観的に見てしまっているのである。そこで、このようにして見える輪郭を、心理学では、「(2)主観的輪郭」と呼ぶ。

   再び①図を見てみよう。

   上図では、主観的輪郭が描く三角形が背景の白よりもいっそう白く見え、下図ではいっそう黒く見える。実際に描かれている図形よりも、主観的輪郭が描く図形方が、くっきり見えるのである。そして、後者は前者の上にかぶさっているようにも見える。

   主観的輪郭が描く図形は、三角形など直線的なものばかりでなく、②図のように曲線が形づくる図形である場合もある。このようなときにも、①図に見た主観的輪郭の特徴は共通である。

   なぜ客観的には存在しない主観的輪郭が見えるのか。イタリアの心理学者カニッツァーによれば、その理由はおおむね次のように説明される。

   眼は、いつも意味あるより単純な形を求めている。もし眼前に複雑で意味を見つけにくいものが見えているとき、眼は不安定になる。だが、それがある形によって隠されているために無意味になっているのであれば、その隠しているものの形を見定めることにより、眼は安定するのである。その形が主観的輪郭が描く形なのである。

   この説明は、主観的輪郭線の特徴をもよく説明してくれる。主観的輪郭が描く図形が他を圧してくっきりと見えるのは、主観を補強して、この描かれていない形を確かなものとして見ようとするためである。背景となる図形にかぶさって見えるのは、(3)そのことが成立条件なのだから当然のことである。

   存在しないものを見る。だから、この主観的輪郭は錯視のひとつとされている。しかし、現実空間でも、実際にはないものを見てしまうということは、あり得ることである。やはり、主観的輪郭は、眼の力のひとつの現われではないのだろうか。

1.

(1)眼が主観的に見るとあるが、ここではどういうことか。

2.

(2)主観的輪郭の特徴として文中にないのはどれか。

3.

(3)そのこととは何か。

4.

この文章が、述べようとしていることは次のどれか。

   かつてアラビア半島の奥地、サウジアラビアのサバクに、ベドウィン遊牧民の生活を取材するため住み込んだことがある。サバクの生活を切りあげて首都リヤド市に帰り、ホテルに泊まっていたとき、わたしの部屋は314号室だった。ある日のこと、受付で自分の番号を言ってカギをもらい、部屋の前まで行ったとき、カギは別室(316号)のものであることに気づいた。受付に戻ってカギの番号を見せながら、「部屋に入れませんでしたよ」と、相手を責めないための心づかいで、わたしは微笑しながら言った。全く予期しなかった答えが返ってきた。一「あなたが間違った番号を言ったのです」

   わたしが予期していたのは「や、これは失礼しました」というひとことなのだ。このとき、もしわたしが初めてアラブと接したのだったら、「あるいは自分が違った番号を言ったのかもしれない」と思っただろう。しかし既に彼らのものの考え方をサバクで学んでいたわたしは、「まさにベドウィン的だ」と思っただけであった。①ベドウィン的な考え方によれば、自分の失敗を認めることは無条件降伏(こうふく)を意味する。例えば皿洗いの仕事をしている人が百円の皿を割って、もし自分の過失を認めたら、相手がベドウィンなら弁償金を千円要求するかもしれない。だから皿を割ったアラブは言う。「この皿は今日割れる運命にあった。おれの意志と関係ない」

これが日本ならどうだろう。普通の日本人だったらこの場合(ただ)ちに言うにちがいない。「まことにすみません」丁寧(ていねい)な人はさらに、「わたしの責任です」などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかしこの美徳は、世界に流用する美徳ではない。まずアラブは正反対。インド人もアラブに近いだろう。フランス人だ「イタリアの皿ならもっと丈夫だ」というようなことを言うだろう。

   わたし自身の体験では狭すぎるので、多くの知人・友人または本から、このような「②過失に対する反応」の例を採集した結果、どうも③大変なことになった。世界の主な国で、皿洗いの人が皿を割って直ちに謝る習性があるところは実に少ない。「わたしの責任です」などとまで言ってしまうお人よしは、まずほとんどない。日本人とアラブとを正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラブ寄りである。中国やベトナムもしかり。ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうにもないささいなこと(体に触った、ゲップをした、など)であるかぎり、「すみません」を日本人よりも軽く言う。この謝罪は、「謝罪」というよりもむしろ一種の慣習である。慣習だからこそ、社会をスムーズに動かす潤滑油として大切なのだ。

   だが、日本人と確実に近い例をわたしは知っている。それは、かつて訪れたことのあるニューギニアのモニ族や北極地方のエスキモーである。モニ族は、わたしのノートをあやまって破損したときでも、カメラのレンズに土を付けたときでも、直ちに「アマカネ(すみません)」と言って恐縮した。そして、さまざまな国の歴史を比較検討してみると、おざっぱにいってこんな傾向のあることがわかる。「異民族の蹂躙(じゅうりん)(注)による悲惨な体験をもった民族ほど、自分の過失を認めたがらない」

   日本人やエスキモーやモニ族は、異民族による蹂躙の恐ろしい体験を、一部を例外として、歴史上あまりもたなかったようだ。

   基本的なものの見方について考えると、ベドウィンの特徴、ひいてはアラブの特徴は、日本の特殊性よりもずっと普遍的なのだ。わたしたちの民族的性格は、アラブ諸国やヨーロッパや中国よりも、ニューギニアにより近いとさえ思われる。探検歴の最も豊富な日本人の一人、中尾佐助(なかおさすけ)教授にこの話をすると、教授は言った。—-「④日本こそ世界の最後の秘境かもしれないね

(本多勝一「民族と文化」「国語3」光村図書による)

(注)蹂躙(じゅうりん):暴力や権力によって他の権利を侵したり、社会秩序を乱したりすること

1.

①「ペドゥィン的」とはどういうことか。

2.

③「大黕こと」とは何か。

3.

④「日本こそ世界の最後の秘獎かもしれないね」とはどういうことか。

4.

②「過失に対する反応」がだいたい同じと考えられる組み合わせはどれか。

   今の子どもたちはテレビやゲーム遊びが中心となってしまったから、疑問を持ったり質問したりする癖を失っている。与えられた情報をいかに使いこなすかが関心事になっているからだ。「疑う」のはかったるい、そのまま信じる方が楽なのに、と思う習慣が身についている。そのような場合には、「①断技術」を教えねばならない。「疑う」方が世界が広がり、もっと面白いことが隠れていることを実感させれば、子どもたちは「疑う」ことに夢中になると請け合える。

 「疑う技術」を教えるためには、大人が子どもを挑発する必要がある。次々と質問を発してアレコレ考える楽しみを味わわせるのだ。それによって子どもたちはいかに多くの不思議にとり囲まれているかがわかってくる。周囲の大人が「疑う心」を持っておれば、子どもも自然に同調するものなのだ。

   むろん、世の中が円滑に回るためには、②共通に定められたルールを「信じる」ということが欠かせないのは事実である。ルールそのものを信じ、みんながルールを守ることを信じ、ルール違反には罰則が科せられることを信じる、それがあってはじめて社会生活が営めるからだ。しかし、私はそのルールさえいったん疑い、納得の上で信じるとかみかかいうふうに変わるべきだと思っている。ルールは(かみ)(がか)り的に上から与えられるものではなく、社会を構成する人間が一致して決めるべきものであるという観念を養う必要がある。(中略)

 「疑う」ばかりで、「信じる」が後回しになるのは心配だと思われるかもしれない。私が言いたいことは、「疑った上で納得すれば信じる」ということである。そうであれば、何を信じ、何が信じられないかの区別がつくだろう。信じることをいったん留保して、疑い続けねばならない場合もあることを学ぶ必要もある。単純なルールであっても、いろんな側面があることを知ることは人生にとって大切であると教えるのだ。ルールだけではない。自然界の現象について「なぜそうなるの?」と疑問を持ち、機械や道具の仕組みに「どんな仕掛けになっているの?」と考え、世の中の風習に「なぜそうしなければならないの?」と不審に思う。そのように疑い続けることが自然や社会の実相をつかむ根源の力になると思うのだ。単純に信じる方が時間がかからず手っ取り早いが、それでは社会に従属するだけになってしまう。

1.

疑う技術とはどういうものか。

2.

筆者は、②共通に定められたルールについてどのように考えているか。

3.

「疑う」ことにはどのような利点と難点があるか。

4.

この文章で筆者が言いたいことは何か。

   私は芸術の存在理由を、一般に考えられているように個人の内面の表現のためにあるより、人間理解あるいは①人間関係の創造のためにあると思っています。われわれが何かを表現し、それを公にする場合、他者あるいは第三者というものを前提としない活動の持続も、専門的な行為の成立もないからです。

   ではこの人間関係の創造とは、何であるのか。それはある人間がどういう関係や状況に置かれているのか、どういう可能性をもっているのか、あるいはどういう感受性(注1をもっているのかをまず明らかにすることです。そしてそこからさらに発展して、いったいこの人間といわれるものは何なのか、そういうレベルでの問いかけを多くの人々と共有することです。つまり、ある表現行為を契機にして他人と共に人間について考え、想像することです。そういう目的で芸術行為の存在は貴重だと私は考えています。

   たとえばベートーヴェンの音楽を聴いて、われわれは②人間を想像し、人間を理解しようとすることができます。これは絵画にも同様に言えます。しかし、人によっては「音楽とは音ではないか」「絵画とは色ではないか」「演劇のように生身(なまみ)(注2)の人間が出てこない」という人がいるかもしれません。そして「なぜそれが人間について想像させるのか」と疑問をもつ人もいるでしょう。

   私が言いたいことは、それが創られた音であり色であるということです。われわれが日常では感じられない音であり色なのです。にもかかわらず、というよりそれだからこそと言うペきでしょうが、われわれは思わずそれに注意を集中させられてしまうことがあります。これはいったい何なのかと。また、そうした音や色を創りだすために自分自身の全エネルギーを捧げる人間とはいったい何なのかと。

音楽でも絵画でも文学でも、さらには演劇でも、すべて人間が創りだしたものです。そうした③人間が創造したものを通して、われわれは日常で慣れ親しんだ考え方や見方とはちがったように人間を想像し、またそのことによって人間関係について考えることがあるのです。(中略)

   いままで多くの人々に励ましを与えてきた価値ある芸術作品は、多様な人間関係や社会を成り立たせている〈コミュニケーション・システム〉がわれわれに与える感受性や考え方を変更しうる力をもっています。そのためにわれわれは芸術家という人間の存在に、われわれの想像力を誘われたのであり、人間というものがそれに所属しないでは生きていけないような社会の在り方について考えさせられたのです。

(鈴木忠志『演劇とは何か』岩波書店による)

(注1)感受性:外からの刺激を深く感じ取り、心に受けとめる能力

(注2)生身:実際の体

1.

人間関係の創造とは、どういうことか。

2.

人間を想像し、人間を理解しようとするのはなぜか。

3.

人間が創造したものに当てはまるものはどれか。

4.

筆者は優れた芸術作品とはどのようなものだと考えているか。

問題4 次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

A

   高速道路というのは、何のためにあるのだろうか。全国どこへでもより早く、便利に行けるようになることで、都市にも地方にも豊かさをもたらす。そういう存在であるベきだ。

   現在のように高額な通行料金が課されるのでは、便利さを求めて企業は都市に集中する。地方にいては条件のいい就職先が見つからないと、若者は都市に向かい、ますます都市に人口が集中する。交通の便がよくなることで地方が活性化し、このアンバランスが解消されれば、都市に集中していた人口が地方に分散し、日本全体の発展が期待できる。

   もちろん高速道路の無料化だけでこれらすべてが実現するわけではない。しかし、地方の活性化のための第一歩になるものだと思う。

B

   最近、高速道路を無料化しろという議論をよく目にするが、ここでちょっと考えてみたい。

   現在、高速道路は有料であることで交通量がある程度抑えられ、その結果、高速走行が可能になっている。しかし、無料化によって交通量が増えれば、走行速度が落ちる恐れがある。現在、高速道路を使って5時間で行ける所が5時間半かかるようになったとしても、大した違いはないと思うかもしれない。ちょっと早く出ればいいのだと。しかし、大量の輸送を必要とする企業にとっては、人件費、ガソリン代などの増大が、高速道路料金を上回るという試算もある。

   金を出さずに時間をかけるが、金を出しても速さを求めるか。選択肢を残してほしいものだ。

1.

高速道路の無料化によって起こると予想されることで、AとBの両方が触れている内容はどれか。

2.

高速道路の無料化について、Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

3.

Aの筆者とBの筆者は、それぞれ何を重視しているか。

A

B

 

1.

A と B のどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

2.

「新常用漢字表」について心配されていることは何か。

3.

A と B は「新常用漢字表」についてどのような立場をとっているか。