Đề thi luyện kỹ năng Đọc hiểu - JLPT N1

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183


Hoàn thành
読解
問題1 次の文章を読んで、文章全体の内容を考えて、以下の中に入る最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   ある美術評論家の言ったことが心に残っている。「人間は早くから概念(がいねん)を与えられるとエネルギーが低いレベルに(おさ)えられてしまう。エネルギーがあふれるほどわき出るようにするためには概念崩(がいねんくず)しをしなければならない。つまり、子供に絵を()かせる場合に、 『マルかいて、眉毛(まゆげ)かいて、目鼻かいて』というような手順で、つまらない顔を描かせている先生が多いけれども、それではダメだ。顔というのは、その子供がどこへ鼻をつけようと目を描こうと、子供らしい表現であることが大事なのだ」というようなお話だった。

1.

概念崩(がいねんくず)とあるが、子供に絵を描かせるときの「概念崩し」とはどういうことか。

   会話や文章の中に外来語や外国語を多用すると円滑なコミュニケーションが妨げられる、という指摘がされることがしばしばある。「あの人の話は横文字が多くてわかりにくい」などという話もよく耳にする。「わかりにくい」が個人的な問題で終わる分には害が少ないが、公共施設の掲示や官庁の広報紙、新聞放送などに多くの人が理解できない外来語や外国語が並ぶとなると話は別である。

2.

筆者の言いたいことは何か。

   最近、地域内の複数個所に自転車の貸し出しをする専用ステーションを設けて、自転車シェアリングのサービスを行う自治体が増えている。環境保護や地域おこしをねらいとした事業だ。最寄りの駅から目的地までの移動などに公共の自転車が利用できれば、さぞかし便利だろう。ところが、まだ成功といえる事例は少ない。背景には、どの自治体も、町にあふれかえる個人の自転車の管理に頭を抱えていることがある、人々の駐輪マナーの低下は、駐輪場の不足によってさらにエスカレートしている。まずは目の前の問題をどう解決するか、そっちのほうが先のようだ。

3.

筆者は、自転車シェアリングのサービスを実施することについて、どう考えているか。

お知らせ

   東西市では大災害発生時の緊急避難場所の地図を作成致しました。避難場所は各小学校・中学校を中心としております。地域の方がどの学校に避難すればいいかわかりやすいように色分けされています。避難場所には水及び保存用食料、宿泊用テントなどの準備があります。災害時には医療サービス・炊き出しサービスなども行われます。また、ご家族の安否確認も行われます。尚、各ご家庭への配布は8月末の予定です。①これを機会に地図を元に災害時にどうするかをご家族で話し合ってください。

4.

これを機会にとはどんな機会か。

   女性の誇りはいかに質の高い愛をもらったか、いかにたくさん愛をもらったか、ということです女性はいつの時代も愛されることに命をかけています。世界中の女性がそう思って生きているのです。ほとんど例外はありません。キレイになりたい、という女心は、愛されたいがゆえの願望です。キレイになりたくない、などと思う女性は、百人に一人いるかいないかという確率です。かわいい自分になってたくさんの男性を引き寄せ、その中から質の高い男性を選ぼうとするのが女性というものです。それが女性の戦略です。

(岩月謙司「女は男のどこを見ているか」筑摩書房)

5.

それ」は何を指しているか。

   脳とコンピューターが似ているのは、いずれも計算や記憶ができるからだ、と思っている人がいます。しかし、計算や記憶をするのはあくまでも脳であって、コンピューターはパソコンやメモ用紙のような道具に過ぎないのです。両者が似ているのは、その基本的な仕組みです。

   脳の主役は神経細胞ですが、その細胞からは細くて長い神経線維という糸が出ています。そして、その神経細胞の先端は別の神経細胞に接触するという形で、次々とつながってゆきます。その接触するところをしナップスとよんでいます。つまり、脳は神経細胞またはシナップスを結び目とした巨大な神経網ということができます。その点が、多数の素子が配線で結ばれているコンピューターと似ているのです。

6.

脳とコンピューターの似ているところはどこか。

   欧米人が「個」として確立された自我をもつのに対して、日本人の自我-それは西洋流にいえば「自我」とも呼べないだろうーは、常に自他との相互的関連のなかに存在し、「個」として確立されたものではない、ということであった。

   西洋人からは、この点に関して日本人の無責任性とか、他人志向(しこう)性などと言って非難されることもある。

           (河合隼雄『日本人とアイデンティティーー心理療法家の着想-』講談社)

7.

この点」は何を指しているか。

   ある山の中の古びた宿場町(しゅくばまち)、ここは江戸時代、交通の要所で多くの旅人が行き()った所である。ここでは電線をはじめ、今を思わせるものは一切私たちの目に入ってこない。本当に狭く、あっという間に歩ききってしまうほどの場所だが、ここの人たちの「古い街並みを保存しよう」という強い気持ちがひしひしと感じられる。生活の便利さを求めてしまったら、できないことだ。歴史的に重要な場所を無計画な町づくりで台無しにして(注)しまっている所があまりにも多いと感じるのは、私だけだろうか。

(注)台無しにする:めちゃくちゃにすること

8.

本文の内容に合っているのはどれか。

   価値観が多様化し、常識と言われるものまでもが個人レベルで異なるような現代社会で、それぞれがそれぞれの価値観や常識を押し付けてもトラブルが起きるばかりである。

   とはいえ、トラブルが起きないように相手に合わせているだけでは、真に互いを理解し合うことはできまい。考えを伝え合い、そのそれぞれを認めつつ、新しい価値体系を構築する。つまり、コミュニケーションを通じて互いに納得できる妥協点を見いだすことが、求められてくるのである。

9.

筆者の考えに合うものはどれか。

看護師募集

在宅医療に力を注ぐ西病院で働いてみませんか。

★資格: 正看護師  給与: 30万円

★賞与: 年2回(1回最低1ヶ月分支給)

★勤務時間: 9:00 ~ 18:00

★休日: 月に最低9日(日曜・祝日含む交替制)・慶弔(けいちょう)(注) 休暇・夏期及び冬期休暇(5 日ずつ)・有給休暇・リフレッシュ休暇(2 年勤務ごとに翌年に7日間支給)

★その他: 昇給年1回 、交通費全額支給、社会保険完備、退職金制度有り

(注) 慶弔(けいちょう): 結婚・出産などの喜ぶべきこと、死などの悲しむべきこと

10.

募集要項と違うのはどれか。

   本来、人間は集団本能をもった社会的動物で、拙会を離れて生存することは不可能だといわれます。ところがいっぽう、人間の頭脳には個を主張する前頭葉(ぜんとうよう)(注1)があって、常に全体と個の調和が求められます。だから全体と個のバランスがうまくとれなければ、社会に適応することはできないのです。

   このバランスがうまくとれるかどうかは、幼児期の教育だいで決まります。

                                                (井深大「幼稚園では遅すぎる 」サンマーク出版)

(注)前頭葉:脳の一部

11.

このバランス」とは何と何のバランスを指しているか。

再見積のお願い

   拝啓

   貴社、益々ご隆盛のこととお喜び申し上げます。

   さて、先般いただいた見積書の件ですが、社内で検討致しました結果、是非お取引を開始させていただきたいと考えております。貴社製品は性能は申し分ないと思いますが、価格の面で考慮いただき、再度見積書を頂けるようにお願い致します。尚、価格で折り合いがつきましたら、納入時期はこちらで考慮させて頂きます。誠に勝手なお願いとは存じますが、よろしくお願いいたします。

12.

手紙の内容について正しいのはどれか。

問題2 次の(1)から(5)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

   日本では羊の毛刈りは羊毛を採るというより観光の目玉になっていることが多い。 刈るところを見せたり刈らせてもらったりする。同様に海外では各地で羊の毛刈り競争が行われている。このような行事ではなく仕事として羊の毛を刈るのは重労働だ。羊は 35~40 キロもするし、じっとしていてくれない。バリカンが滑って傷つけるとそこからバイ菌が入って病気になるどこある。また、羊を押さえて刈っていくには技術が必要だから養成学校もあるそうだ。熟練した職人は 1 頭を 1 分で刈るとができ1日に300頭も刈るそうだ。しかし腰痛になる人も多い。料金は 1 頭 500 円ぐらいだからかなり大金が稼げる。そうはいっても厳しい仕事だし季節性もあるから年々なり手が減っている。

   この羊の毛刈り作業を圧倒的に楽にさせる方法が生まれた。日本のバイオ技術が使われている。毛刈りの時期の1ヶ月前に注射をして体に網を被せておく。網は毛が途中で落ちるのを防ぐために使われる。当日服を脱がせるように網を剥ぎ取ると、一緒に毛がついてくる。バリカンで刈ったのと比べると完全に丸裸という感じで全ての毛が採れる。その間たったの3秒だ。だから羊にも優しい技術と言える。今のところ注射の副作用がないそうだから広まる可能性が高い。

1.

バりカンを使った羊の毛刈りの説明に当てはまらないのはどれか。

2.

バイオ技術を使ったやり方の特徴はどれか。

3.

バイオ技術のおかげでないことはどれか。

   以前、花見をしているときに「桜の花は本当にきれいな正五角形(注1) だね」と言ったら、風情のない人だと笑われたことがあった。確かに、桜の花びらには微妙な色合いや形、そして香りに加えて、散りゆく美しさがある。花を()でる和歌や俳句は数限りないが、そのなかに「正五角形」という言葉が使われたことはおそらく一度もないであろう。科学者特有の美意識は、風流とはかなり異質なものなのだと悟った。

   科学において本質以外を切り捨てるためには、大胆な抽象化と理想化が必要である。桜の花びらのたくさんの特徴の中から、「正五角形」という形だけを取り出すこと。これが抽象化である。実際に数学的な意味で安全な正五角形を示す花びらは少ないだろうが、そこにはあまりこだわらない。これが理想化である。

   自然界で正五角形のような対称性を示すためには、必ず規則的な法則があるはずである。花の場合、品種によって花弁(かべん)(注2) の回転対称性が遺伝子で決定されていることは間違いないから、うまくこの遺伝子を突き止められれば、花の形を決める普遍的な法則が見つかるに違いない。このように、抽象化と理想化によって自然現象は単純に整理でき、普遍的な法則を見つける助けになる。

(注1)正五角形:五つの辺の長さが等しい五角形

(注2)花弁(かべん):花びら

1.

筆者は、自分が笑われた原因はどこにあると考えているか。

2.

ここでの理想化とは何か。

3.

筆者の考えによると、花の場合、抽象化と理想化によって何が期待されるか。

   私は、世界初、日本初、業界初、市場初などとついた商品が出るとワクワクするというミーハー(注)だ。電卓が小型化、薄型化を競いはじめたころ、名刺サイズで厚さが5ミリメートルくらいのが初めて発売されたときには、結構な値段にもかかわらず飛びついてしまった。

   数字に弱いにもかかわらず、仕事で電卓を使うことが多かった私にとって、電卓をいつも身につけることができる名刺サイズは、①大きな福音に思えだ。しかも、出はじめの商品であるだけに、同僚たちに自慢ができるというミーハー心もくすぐられたからでもある。

   しかし、買ってしばらくは定期入れと一緒に持ち歩いていたが、1カ月もしないうちに元の電卓を使うようになり、カード電卓は机の引き出しで(ほこり)をかぶってしまうようになった。②それは、名刺サイズにするためにキーを小さくており、しかもその操作感も頼りないために使いにくかったからである。また、胸ポケットなどに入れると、本体がねじれるため接触不良をおこし、故障したりもした。そういったことがあったため、その後、電卓が薄型化を競い合い、キーの突起がないフラットなものまで出てきたが、さすがにミーハーの私でも飛びつくことはなかった。もちろん、名刺入れに入るというカード電卓のよさはあるが、ある意味では非常用であり、指の大きさや器用さから言えば、ものには「適度な」大きさがあることを学んでのである。

(注)ミーハー: 程度の低いことに熱中しやすく、流行に左右されやすい人

1.

筆者には、なぜ①大きな福音だと思えたのか。

2.

それは何を指しているか。

3.

名刺サイズのカード電卓を使ったことで、筆者がわかったことは何か。

   ほんとうに悲しいときは言葉にできないぐらい悲しいといいます。ですから、小説の中で「悲しい」と書いてしまうと、ほんとうの悲しみは(えが)ききれない。言葉が壁になって、その先に①心をはばたかせることができなくなるのです。それはほんとうに悲しくないことなのです。人間が悲しいと思ったときに心の中がどうなっているのかということは、ほんとうは言葉では表現できないものです。けれども、それを物語という(うつわ)を使って言ようせん葉で表現しようとして(ちょう)(せん)し続けているのが小説なのです。「主題は何でしょう、二十字以内で答えなさい」というようなテストがあったとして、その二十字がまず浮かんでくるのであれば、それは②小説として書かれる必要性を持っていないと思います。ですから、「テーマさえしっかりしていれば、いい小説が書ける」というのは(げん)(そう)です。テーマは後から読んだ人が勝手にそれぞれ感じたり、文芸評論家の方が論じてくださるものであって、③自ら書いた本人がプラカードに書いて(かか)()つものではないと考えております。

1.

心をはばたかせることができなくなると筆者が考えるのはなぜか。

2.

小説として書かれる必要性を持っていないとはどういうことか。

3.

自ら書いた本人がプラカードに書いて(かか)()つものではないとはどういうことか。

   貴重な生物が多い地域には、貴重な言語も多い。そんな調査結果を、米英の研究チームが米学アカデミー紀要に発表した。しかし、その多くの言語は話し手が少なく、英語など一部の言語が国際的に広がることで、①「絶滅」の危険性があるという。

   チームは約6900の言語について地域的な特徴を分析。半分近い約3200の言語は、固有の生物が多いが、急速に生息地が失われている②「ホットスポット」と呼ばれる35 の地域で使われていた。ホットスポットは地上の約2.3%を占めるに過ぎないが、木や草、シダなどの約50%と、陸上に住む(注)脊椎(せきつい)動物の約40%がその地域だけに住む固有種だという。

   約2200の言語はその地域に固有の言葉で、約1500の言語は1万人以下、約500の言語は1千人以下の人しか話していなかった。

   葉と生物の多様性が同じ地域で見られる理由について、チームは「複雑で、地域ごとに異なるだろう」として詳しくは言及していないが、「人間の国際的な経済活動は、貴重な言語にとっても潜在的な脅威になっている」と指摘している。

                                                             (朝日新聞2012年6月13日付夕刊による)

(注)脊椎動物:背骨を持つ動物 

1.

①「絶滅」の危険性があることがわかったものは何か。

2.

②「ホットスポット」の特徴として正しいものはどれか。

3.

今回の米英チームによる調査を通じて、どのようなことが明らかになったか。

   川は、人生と自然との関わりを深く結びつける空間である。ひとが自分の人生のイメージを川の流れに重ね合わせる場といってもよく、ひとの人生を形づくっていく経験が貯蓄される場であるといってもよい。

   川のもつ変化の相は、それを体験する人間の経験の豊かさの諸相でもある。川は人びとにさまざまな経験を与え、人生を豊かにする可能性をもつ。

   人生を豊かにするということのなかに、川のもつ「流れ」がある。しかし、河川事業を行うとき、しばしばこの根本的な性格が見落とされる。

 「エジプトはナイルのたまもの」というように、川はまず恵みを与えてくれるものであるはずなのに、しばしば①河川事業を説明するパンフレットは、洪水の図から始まっている。特に都市の場合、洪水の原因はといえば、人間が土地を舗装し、地面に水が吸い込まれなくなったことなど、人為的な原因があるにもかかわらず、そのために起こる洪水の恐怖、リスクを先に置き、「自然の脅威」とか「牙をむく自然」とかといった自然を擬人化して敵対的な表現が用いられる。

1.

筆者は川と人生をどう考えているか。

2.

河川事業を説明するパンフレットは、洪水の図から始まっているのはなぜか。

3.

この文章の内容に最も近いものはどれか。

   結婚しない人が増えているというが、先日、 ある調査で 独身男女の結婚観に開きがあることが分かった。

   一昔前までは、 「 男は外で働き、女は家を守る」 という考えが男女ともに主流であったが、 最近の男性は結婚相手が自分より年収が高くてもいい、女性にもある程度は(かせ)いでもらいたいと考えている人が7割を超えるという。 不況の今、 自分の収入だけで妻子(さいし)を養う自信はない。だから女性にも 稼いでほしいという本音(ほんね)がうかがえる。

   一方、女性はというと、「自分が働かなくても()(けい)が成り立つ人と結婚したい」 と考えている人がほとんどだった。女性の社会進出が進んだ今でも、高収入の男性と結婚し出産後は専業主婦(せんぎょうしゅふ)に、という価値観はまだまだ支配的なようだ。

   こういう独身男女を「わがままだ」 と非難(ひなん)するのはたやすいが、 貧富(ひんぷ)の差が広がる、 いわゆる「 格差(かくさ)社会」 という現実に直面(ちょくめん)している彼らにしてみれ場、‚しかたのないことなのだろ。経済的不安を抱える男女が結婚相手に高収入を期待するのは無理もない。

   ここで、 新たな可能性がうかがえるのは、 高収入の女性と低収入の男性のカフプルだ。だが、これにも条件がある。女性は、「男が家族を養うものだ」 という従来(じゅうらい)の価値観を捨てること。 男性は「家事は女性が」 と言わずに、 しつかり家事をこなす力を身につけることだ。③そこからは、きっと明るい未来が見えてくる。ともかく、 男女双方(そうほう)、お互いに努力しなければ 、今以上に独身男女が世にあふれることになるだろう。

1.

「独身男女の結婚観に開きがある」 が、どういうことか。

2.

しかたのないことなのだろ」と筆者が考える理由は何か。

3.

そこからは、 きっと明るい未来が見えてくる』とあるが、筆者の考えに近いものはどれか。

「疲れましたなあ」 

   と、同行のTさん(注1)が、湯気のなかでいった、Tさんはものに感動すると肩が()る人である。(中略)

下関(しものせき)(注2)・山口間の景色など、とくべついいものではない。むろん奇岩怪石(きがんかいせき)(注3)が団々と横たわっているわけでなく、変哲もない田園と丘陵のなかを道が北上してゆくのみなのである。しかし途中、出会う車はほとんどなく、例の擬石(ぎせき)(注4)建造物もあまりなく、平凡な緑と空がつづいていた。平凡な緑と空というものが、いまや日本ではもっとも歎賞(たんしょう)(注5)すべき絶景になっているのである。Tさんの肩の凝りは、そういう絶景への感動と無縁ではないらしい。(中略)

Tさんはこの松田屋の湯のなかで顔の筋肉をゆるめながら、不意に気づいたように、「これは温泉ですか」

と、叫んだ。

われわれが(ひた)っている湯は、温泉であった。われわれがいま山口市の高名(こうめい)な温泉地である湯田の宿に泊まっている以上、この湯は温泉にちがいない。

「なるほど、温泉ですか」

と、Tさんは、この浴室における大発見にすっかり①感動してしまい、ふたたび肩が凝りはじめたようであった。

Tさんは、元来地理的教養の豊富な人なのである。山口市には湯田温泉というものが存在するということは知っているし、第、この宿の予約をとってくれたのはTさんなのである。しかしそれらはすべて知識であって、叩今只今(たたくいまただいま)Tさんの浸せた肉体を浸しこんでいるこの湯が温泉であるという心証的発見とはかかわりがない。肉体をもってこれが温泉であるということを知ったときに突如声を発するというのが、詩人なのであろう。

(司馬遼太郎 『街道をゆく1甲州街道、長州路ほか』朝日新聞社による)(注1)Tさんは詩人である。

(注2)山口県の下関市と口市の間。筆者とTさんは、福岡県の小倉市から下関市を経由し、山口巾に移動してさた。

(注3)奇岩怪石:奇妙な形をした珍しい岩々

(注4)擬石建造物:天然石に似せて作シた人造石の建造物

(注5)歎賞:優れたものとして感じ入ること

(注6)心証:心に受ける印象

1.

Tさんは山口への移動中、なぜ肩が凝ったのか。

2.

Tさんは何に①感動したのか。

3.

筆者は詩人とはどのような人だと考えているか。

   高山病に苦しむ男を、TV劇のなかで、俳優が演じれば、「やらせ」にならない。はじめからつくり事(注)が約束だからである。同じ場面を、ネパール高原のNHK特別番組のなかで、撮影隊の一人が演じれば、「やらせ」になる。(中略)「やらせ」であるかないかを区別するのは、場面についての約束であって、場面のつくり方、でき上がった場面そのもの、その場面を見る人の反応ではない。TV劇でも、特別番組(「ドキュメンタリー」)でも、撮影の現場では、誰もほんとうに高山病ではない。場面はみせかけである。見る人は、一人の男がほんとうに高山病に苦しんでいるかのように信じて、みせかけの画面を眺め、主人公に同情したり、なるほどネパールの自然はきびしいと思ったりする。いずれにしても見る人はだまされるのであり、(中略)一方がだまされたくてだまされるのに対して、他方がだまされたくないのにだまされるというちがいがあるにすぎない。

   しかしネパール高原の「ドキュメンタリー」について、視聴者は、一体何にだまされたくないのか。撮影隊の一人が高山病にかかったかどうかは、個別的な事実の問題である。その事実を通して番組のいいたかったのは、おそらくネパールの自然のきびしさだろうが、ネパールの自然がほんとうにきびしいかどうかは、また別の問題である。だまされたくないのは、個別的な事実についてか、その事実の意味、さらには番組全体のいおうとした事についてか。そもそも「ドキュメンタリー」というもののあらかじめの約束は、そのどちらに(かか)るのか。もし後者に(かか)るとすれば、NHKのネパール高原番組は、必ずしも視聴者をだましたとはいえない。もし前者に(かか)るとすれば、そもそも視聴者をだまさない「ドキュメンタリー」は、容易にあり得ないだろう。

(加藤周一「やらせ」について 『夕陽妄語』朝日新聞社による)

(注)つくり事:作り話、うそ

1.

TV劇と特別番組の「やらせ」について、本文と合っているものはどれか。

2.

筆者によると、この特別番組が視聴者に伝えたかったのは何か。

3.

必ずしも視聴者をだましたとはいえないとあるが、なぜか。

問題3 次の文章を読んで、質問に答えなさい。答えは、1・2・3・4から最もよいものを一つえらびなさい。

   日本人に個性がないということはよく言われていることだけれど、今世界的に、1週間、或いは年間にどれだけ働くか、ということについて、常識的な申し合わせが行われていることには、私はいつも①違和感を覚えている

   私は毎年、身体障害者の方たちとイスラエルやイタリアなどに巡礼の旅をしているが、一昨年はシナイ山に上った。盲人も 6 人、ボランティアの助力を得て頂上を究めた。普段、数十歩しか歩けない車椅子の人にも、頂上への道を少しでも歩いてもらった。②障害者にとっての山頂は、決して現実の山の頂きではない。もし普段100歩しか歩けない障害者が、頑張ってその日に限り、山道を200歩歩いて力尽きたら、そここそがその人にとっての光栄ある山頂なのである。

   人間が週に何時間働くべきか、ということにも、ひとりひとりの適切な時間があると思う。労働時間を一律に決めなければならない、とするのは専門職ではない、未熟練労働に対する基準としてのみ有効である。未熟練労働者の場合は、時間あたりの労働賃金をできるだけ高くし、それによって労働時間を短縮しようとして当然である。

   しかし、専門職と呼ばれる仕事に従事する人は、労働報酬の時間あたりの金額などほとんど問題外だ。私は小説家だが、小説家の仕事も専門職に属するから、ひとつの作品のためにどれだけ時間をかけようと勝手である。短編をほんの2、3時間で書いてしまうこともあるし、10 年、20 年と資料を集め調べ続けてやっと完成するものもある。ひとつの作品に私がどれだけの時間や労力や調査費をかけようが、昼夜何時間ずつ働こうが、それは私がプロである以上、自由である。

   日本の社会の中には、職場の同僚がお互いに牽制(けんせい)する(注1) ので、取ってもいいはずの休みも取れない人が確かにかなりいる。小さな会社の社長に頼みこまれると、したくもない残業をしなければならなくなる社員もいる。そうしないと会社が(つぶ)れて失業をすることが目にみえているからである。その結果「過労死」などということも(まれ)には起きることになる。

   しかし日本人のなかには、仕事が興味という人も実に多い。プル―カラーと呼ばれている人たちの中にさえ、どうしたら仕事の能率が上がるか考えている人はざらである(注2)。趣味になりかけているものが、たまたま会社の仕事だから、時間が来たら帰らねばならない、というのもおかしなことだ。それは③プロの楽しみを妨げることであって、一種の個人の自由の束縛というものである。

   ただそれほど働きたくない人は仕事をしない自由を完全に守れるように、社会は体制を作り変えるべきである。しかし同時に、一律に休みを取れ、というような社会主義的発想は、いくら世界の流行だとはいえ、自由を手にしている人間に対しては、個人へ干渉であり、非礼である。

(注1)牽制する:相手に注目して、自由な行動をじゃまする

(注2)皿である:よくある

1.

違和感を覚えているのはなぜか。

2.

筆者は、 ②障碍者にとっての山頂とはどこだと言っているか。

3.

筆者は、③プロの楽しみとは何だと言っているか。

4.

筆者の考えに合っているものはどれか。

   高速化した現在においては、様々な情報が入り、移動も高速化されたことにより、①遭在的に宝現町能な事柄の数は増えたに違いない。やりたいことの中には、「どうしても実現したい」というものもあれば、「やらないよりはやったほうがまし」というレベルの事柄も多く含まれていることだろう。

   しかし、人間が一つのことをやり遂げるにはどうしても一定の時間がかかる。その時間が技術革新や経験、学習によって、増えた欲望を満たすのに必要な時間以上に短縮されないとしたらどうなるだろうか。当然、潜在的な可能性に基づいて肥大する欲望のうち、実際に満たされるものは一部のみということになる。この場合、やりたいこと、やれるはずのことは数多くあるのに、なかなかそれが実現できないジレンマが生じる。

   そうなると、むしろ、できる事柄が少なかったころよりも時間が足りず、忙しく、②やりたいことができないという感覚が強くなっているかもしれない。

   同様の問題は、会社などにおける仕事についても指摘できる。「やらないよりはやったほうがよい」作業や会議などが増えたとしても、1日の長さが変わるわけではない。また、どんなに単純な作業であっても、その遂行にはある程度の時間が必要だ。

   やらないよりはやったほうがよい仕事の数が少ないうちは何とか対応できるだろうが、その数がどんどん増えていくと、本当になすべき仕事にかけたい時間も削られることになってしまう。③結果として、組織としての生産性は低下する。誰にとっても時間は有限であること、どんなに簡単な作業も一定の時間を必要とすることを考慮し、作業の優先順位に従って、効率的に時間という資源を使用することを心がけることが望ましい。

1.

潜在的に実現可能な事柄の数は増えたとはどのような意味か。

2.

やりたいことができないという感覚が強くなっているのはなぜか。

3.

結果として、組織としての生産性は低下するとあるが、それはなぜか。

4.

この文章で筆者が言いたいことは何か。

   最近、思想を表現する方法について考えることが多くなった。たとえば、文章は思想を表現する方法のひとつだけれど、その文章にもいろいろな表現形式がある。哲学の勉強をはじめた頃の私は、さまざまな形式のなかで論文という形式だけが、思想表現の方法にふさわしいと思っていた。

   しかし、後に、この考え方を訂正しなければならなくなった。思想の表現として、論文が唯一の方法だということは絶対にない。私たちは、すぐれたエッセーや小説、 詩をとおして、しばしば思想を学びとる。とすれば、思想を表現する文章のかたちは、自在であってよいはずである。

   ところが、そう考えてもまだ問題はある。というのは、思想の表現影式は、文章というかたちをとるとは限らないのだから。絵でも彫刻でも、音楽でも、つまり実にさまざまなものを用いて、思想を表現するのは可能なはずである。そのなかには、かたちにならないものもある。

   たとえば私の村に暮らす人々のなかに、自然に対する深い思想をもっていない人など一人もいない。村の面積の96パーセントを森や川がしめるこの村で、自然に対する思想をたなかったら、人は暮らしていけない。ところが村人は、<自然について>などという論文を書くことも、文章を書くこともないのである。そればかりか、自分の自然哲学を、絵や音楽で表現しようとも考えない。

   そんなふうにみていくと、村人は自然に対してだけではなく、農についての深い思想や、村とは何かという思想をももっているのに、それらを何らかのかたちで表現することも、またないのである。

   とすると、村人たちは、どんな方法で自分たちの思想を表現しているのであろうか。私は、それは、<作法>をとおしてではないかという気がする。
(中略)
   考えてみれば、もともとは、作法は、思想と結びつきながら伝承されてきたものであった。たとえば昔は、食事の作法を厳しくしつけられた。食べ物を残すことはもちろんのこ、さわぎながら食事をすることも、けっしてしてはいけなかった。それは、食事は生命いただくものだ、という厳かな思想があったからである。茶碗(ちゃわん)の中の米だけをみても、人間はおそらく何万という生命をいただかなければならない。だから、そういう人間のあり方を考えながら、いま自分の身体のなかへと移ってくれる生命に感謝する。この思想が食事の作法をつくりだした。

   ところが、近代から現代の思想は、このような、日々の暮らしとともにあった思想を無視したのである。その結果、思想は、文章という表現形式をもち、文章を書く思想家のものになった。そして、いつの間にか人間の上に君臨し、現実を支配する手段になっていった。

1.

かたちにならないものとして筆者が挙げているのはどれか。

2.

この文章中で筆者は、自分の村に暮らす人々がどんな思想をもっていると述べているか。

3.

食事の作法は、次のどのような考え方と結びついているか。

4.

この文章中で筆者が述べていることはどれか。

   国内旅行中、新幹線で隣り合った男性と世間話をしていたら、実は彼の恋人がよく昼ご飯を食べに行くレストランが、自分の妻の友人が経営する店だった---。こういう出来事に出くわすと、人は「世間って狭いもんだねえ」と感激し、なにか運命的なつながりを感じるものである。もし、この2人が男女であったりすれば、この運命的な偶然のー致をきっかけに距離が急速に近くなり、場合によっては結婚に発展することだって十分にありうる。

   だが、①こうした出会いというのは本当に運命的なのだろうか?

   仮に日本の人口を1億人として、一人一人が1,500人ずつの知人を持ち、彼らが全国に散らばっているとする。そして、どこかで出会った見知らぬ人と、②間に2人の人間をはさんでなんらかのつながりがある確率はほぼ100%に近いのである。

   それでも冒頭のような出来事にめったにお目にかからないのは、平均的な日本人に知人が1,500人もいないとか、その知人が全国に散らばっていないということもあるが、なによりもお互いに自分のすべての知人について語り合うということがないからだ。

   根気よく世間話を続ければ、「実はお互いの知人同士が知人」という確率は、私たちが思っている以上に高い。世間は本当に狭いのである。

   ③ある心理学者がこんな実験をした。彼は無作為に選んだ人たちに書類を渡し、それを「Aさんに届けてほしい」と依頼した。書類を渡された人たちは、Aさんとはまったく面識はないし、共通の友人・知人もいない。その学者は「目標の人物をもっとも知っていそうな知人に書類を渡し、書類を受け取った人はさらにその知人へと、その人物にたどりつくまで同じことをくり返すように」と指示したのだ。こうしたサンプルを数多く集めることで、見知らぬ同士が何人の人をはさんでつながりを持っているかを調べよ。うとしたわけだ。

   結果は「知らない人同士の間に介在する人の数は2〜10人。5人がもっとも平均的」というものであった。つまり、どんなにエラい(注1)人や有名なスターでも、彼らとあなたの間はわずか数人の人たちによって隔てられているに過ぎず、何かのきっかけで彼らと知り合いになる可能性はあるし、逆に彼らに関するさまざまな情報や秘密がウワサ(注2)として伝わってくることもあるはずだ。

   確率の世界では、世間というのは我々が考えている以上に狭くて、人びとが(みつ)かに関連しあう空間なのである。

(注1) エラい:偉い 

(注2) ウワサ:噂

1.

こうした出会いというのは本当に運命的なのだろうかとあるが、筆者は確率から考えて、こうした出会いをどう(とら)えているか。

2.

間に2人の人間をはさんでなんらかのつながりがあるとは、具体的にどういうことか。

3.

③ある心理学者がこんな実験をしたとあるが、筆者はその結果についてどのように考えているか。

4.

筆者が考えている、運命的な出会いが少ない最も大きい原因は何か。

  我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を旅行しようと、何をしようと、小さい。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学問はただの大風呂敷(おおぶろしき)(注1) になる。言葉の風呂敷(ふろしき)はいくらでも広げられるから、そうやっているうちに自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、①そんな錯覚に捕らえられる。木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる農夫(のうふ)とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界標準の稲を育てたりはできないから、彼らはみな、自分の仕事において賢明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学問をすること、書物に学ぶことは、 ほんとうは②これと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたとはみな、我が身ひとつが天地の間でしっかりと生きることだからだ。

   人は世界的にものを考えることなどはできない。それは錯覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を開いていることならできる、我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人間なら、それかどういうのことかは、もちろん知っている。人は誰でも自分の気質を背負って生まれる。学問する人にとって、この気質は、農夫(のうふ)に与えられる土壌ようなものである。土壌は天地に開かれてなければ、ひからびて(注2)不毛になる。

   与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学問や思想もまた、人の気質にえられた苗のように育つしかないのではないか。子供は、勉強して自分の気質という土を耕し、水を引き、もらった苗を、書物の言葉を植えるのである。 それは、子供自身が何とやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる書物とともに育つことができる。子供が勉強をするのは、自分の気質という土壌から、やがて実る精神の作物を育てるためである。「教養」とは、元来この作物を指して言うのであって、(もの)()り(注3) たちの大風呂敷(おおぶろしき)を指して言うのではない。

(注1)大風呂敷(おおぶろしき):実際より大きく見せたり言ったりすること

(注2) ひからびて:乾ききって

(注3)(もの)()り:物事をよく知っている人

1.

そんな錯覚に捕らえられるとはどういう意味か。

2.

これとは何を指すか。

3.

この文章では、学問をするということをどのような例を使って説明しているか。

4.

筆者は「教養」をどのようなものだと考えているか。

   学生が農村調査などに出かけると、農家の人たちは、学生さんがきた、というのでしばしば丁重に扱ってくれたりする。しかし、そういうときが、じつはいちばん①危険なのだ。丁重に扱われることによって、学生はじぶんたちのほうがえらいのだ、という錯覚におちいる。そしてその錯覚のゆえに、教えを乞う、という謙虚なこころをいつのまにか失ってしまう。学生だって、大学教授だって、ほんとうはちっともえらくなんぞありはしない。知らないことだらけなのである。知らないからこそ、ひとに会って教えてもらおうとしているのである。肩書きがどうあろうと、教えを乞うているかぎりは学ぶ立場にいる。その学ぼうとする謙虚なこころが、ひとに話をきくときの基本的心がまえでなげればならぬ。相手が農民であろうと、タバコ屋のおばあさんであろうと、取材する相手は、大げさにいえばわれわれにとっての教師なのだ。ひとにものをきくときには、いささかなりとも尊大な気持をもってはいけない。尊大な取材をする人は、けっして真実の情報を手にいれることもできないだろうし、そういう人にはおよそ知的な進歩も期待できない。

   このことはジャーナリストにとってもあてはまる。新聞社の名刺を出せば、いわゆるコワもて、というやつで、どこにでもかなり自由に出入りできる。そのことから、ジャーナリストは不当な自負心をもち、尊大になりがちだ。しかし、それはジャーナリにとっての最大の②ワナなのである。そのワナにひっかかったがさいご、そういう人物は③けつして大成できないと知るべきであろう。

   じっさい、わたしはこれまでの体験のなかで、大記者、名記者といわれる人たちにたくさん会ったが、そういう人はひとりの例外もなく、柔和で、謙虚な人びとであった。肩ひじ張って眼光するどい――そういうタイプの人はテレビの記者ものには登場するがそれはけっしてじつさいの名記者のイメージではないのである。ほんとうの名記者は、しずかで、たのしい人物たちなのである。その人がらが、すばらしい取材能力を決定している、といってもさしつかえないだろう。かれらはひとに話をきくにあたっての基本的な作法、つまり、謙虚さを人がらのなかにそなえているのである。

   ひとに教えを乞うという態度――それは当然、感謝の念とつながってゆく。そして、なんらかのかたちで感謝のこころをあらわす、ということが、しぜんとものをきく作法のなかに反映されてゆくのである。(中略)話をきいたあとで、たとえハガキ一本であろうと、こころがこもっていればそれでもじゅうぶんだ。教えをうけたことにたいする感謝――そのこころを素直にもてるかもてないか、いささか道徳的な話になってしまったが、そのこころ構えがものをきく作法の基本条件だ、とわたしはかんがえている。

(加藤秀俊 『取材学 探求の技法』中公新書による)

1.

筆者が①危険だと感じるのはどのようなことか。

2.

ワナとはどういう意味か。

3.

けっして大成できないのはなぜか。

4.

筆者が考える大記者、名記者とはどんな人物か。

問題4 次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

A

   選挙権は一人一票。平等に与えられているはずだが、実際は人口の少ない地域の候補者が少ない票数で当選するのに対して、人口が多ければその倍以上取っても落選する。2008 年の選挙では人口の多い神奈川県(かながわけん)と少ない鳥取県(とっとりけん)では 4.868 倍もの格差があった。私の票も衆議院で 0.46 票、参議院て 0.23 票の価値しかない。このままでは私の意見はこの比率しか反映されない。早く格差を無くしてほしい。議員は地位が脅かされる選挙制度改革をしたくない。しかし最高裁判所で格差は憲法違反だという判決が出れば改革せざるを得ない。そこで、最高裁判所の裁判官の国民審査で格差を憲法違反ではないと考える裁判官を信任しない、つまり x をつけるという運動が生まれた。これを広めて世論を喚起し一票の格差を解消したいと思っている。

 

B

   国民は法の下に平等だから一票の格差は解消すべきものだろう。しかし、完全に平等になったら都会の人たちの意見を代表する議員ばかりになり、私たち人口が少ない地域に住んでいる者の意見は国政に反映されなくなってしまう。地方の疲弊が言われている。私の住む地域は子どもの学力テストで日本一と言われ持て(はや)されているが、成長した優秀な子ども達のほとんどが都会に行って帰ってこなない。沢山の税金や家計費を使って都会の繁栄のために子育てしているようなものだ。あげくの果てに国政でも隅に追いやられては、地方は益々活カを失ってしまう。選挙制度の改革は当然だが、格差解消だけでは真の平等は実現しない。地方の意見も吸い上げる新しい制度が必要だと思う。

1.

どうして選挙制度が変わると地位が脅かされるのか。

2.

両者の立場を表しているのはどれか。

3.

日本の現状を述べているのはどれか。

A

   ウサイン・ポルトが100メートルを何秒で走ってもわれわれの生活が変わるわけではない。急に収んが増えるわけでも、 夏休みの宿題が片付くわけでもない。

   それなのになぜだろう。ジャマイカ出身の、 この傷気な二十三歳の青年の記録への挑戦(ちょうせん)が、これほど人の感動させるのは。

   ベルリンでの世界陸上選手権(りくじょうせんしゅけん)で、100メートルに続き、200メートルでも世界新記録を打ち立てた。後半100メトルのタイムは、実に9秒27! 先の100メートルでは自己(じこ)の持つ世界記録9秒69を一度に0秒11も縮めた。テレビの解説者によれば、一本来は0秒01縮まっても興奮する世界だ」 そうだ。確かに過去の更新(こうしん)も0秒05ぐらいの短縮(たんしゅく)がせいぜいであった。文字通り「けた違い」の記録だ。

   どんなに「 超人(ちょうじん)」 に見えても、 この長身(ちょうしん)の青年も、 われわれ六十何意人かの一人にすぎない。その1人の青年がわれわれに人類の可能性を示してくれたのだ。

( 「筆洗」 2009 月22日付け東京訢新聞朝刊による)

B

   ベルリンで開催(かいさい)されている世界陸上選手権で、 100メートルの世界新記録が生まれたと思ったら、すぐに、 200メートルでも新記録が樹立(じゅりつ)された。もちろん、 ジャマイカ出身のウサイン・ボルトである。

   100メートルのタイムは9北京(ぺきん)オリンピックで自ら出した世界記録を0秒11も縮めた9秒58、 200メートルは19秒19だ。

   確かに、 これはおどろくべき記録なのだろう。 今までになかったことなのだろう。 新聞やテレビが大騒ぎするのもわからないでもない。日本の選手はいまだに10秒の壁も破れないでいるのだから。

   しかし、 どうだろうか。 疑問に思うのは、 その報道(ほうどう)の仕方であるジャマイカの選手が新記録を出したら、 日本人選手もという気になって、 根拠(こんきょ)もないのに期待をふくらませ、 特にテレビの報道が過熱する。そして、 選手はプレッシャーに負けて惨敗(ざんぱい)する。 そのくり返しである。

   いつになったら、 なぜ日本選手は100メートル走で勝てないのか、 その科学的分析ができるようになるのだろうか。

1.

AとBのどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

2.

新記録誕生のマスコミ報道(ほうどう)について、 Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

3.

今回の世界新記録が今までの記録と違うのはどんな点か。

 A大学が現在の春入学から秋入学に全面移行する方針を打ち出した。

   世界の主流は秋入学であり、春入学は日本を含め7カ国のみだという。世界の流れに合わせることで、留学生を増やし、大学の国際化を促進することが狙いである。また、3月の高校卒業から大学入学までの空白期間、いわゆる「ギャップターム」の間に社会経験が積めるとしている。

   だが、果たして、秋入学への移行が即ち留学生の増加、ひいては国際化に繋がるのだろうか、教育の質の向上を始め、優先すべき課題があるのではないだろうか。さらに、「ギャップターム」を有効活用するという構想は、理想論に過ぎないと感じる。社会に「ギャップターム」の受け皿が整わないうちは、所属先のない不安定さや径济的な負担を問題と捉える人が多いだろう。

B

 A大学が秋入学実施に向け本格的に動き出す方針を発表した。5年後を目途に国際基準である秋入学を導入し、海外との研究・教育の交流を活発化させる考えだ。

   その実現に向けてはいくつかの課題がある。一つは、秋入学した学生の卒業時期と新卒の定期採用の時期(4月)にズレが生じること、このズレが就職に不利になるという見方が強い。その解決のためには、秋入学.秋卒業の大学が増え、企業の採用方針が、春の一括採用から、春と秋の採用や通年採用に改められなければならない。それは一括採用.長期雇用といった日本型雇用システムの変更を意味する。

   そのため、A大学は、単独での秋入学移行ではなく他大学との連携を目指し、経済界との協議も始めている。

1.

AとBのどちらか一方でのみ触れられている情報はどれか。

2.

AとBは、それぞれ秋人学導入についてどのような立場をとっているか。

3.

日本で秋人学が広まるために必要なこととして、AにもBにも書かれていないことはどれか。